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第152話 僕らの事情(11)
「遠距離になって、前とは違うなと思うことは、そりゃ、あるよ。単純に、会いたい時にすぐに会えないとかさ。でも、淋しくなるなあと思ってたら案の定淋しくて、和樹は今頃、俺の知らない人と仲良くやってたりするんだろうなあって、モヤモヤしたりとか、でも、そういうのも全部ひっくるめて、予想していた範囲内でしかない。離れてみて初めて、和樹の存在の大きさに気付いたとか、ない。そんなの、前からそうだった。」
「そうか……。」言われてみれば、和樹もそんなものだった。取り巻く環境が変わったのだから、以前と違うことはある。でも、離れなければ分からなかったことなんて、なかった。1人暮らしを通して、自分の家事能力が思ったよりも低かったことには驚いたが、予想を超えて気付いたことなど、それぐらいだった。涼矢の存在の大きさは、離れたからと言って大きくも小さくもなっていなかったし、涼矢との関係が予想外に変わることもなかった。「哲と倉田さんは、俺たちとは違う? 離れることで、何かが変わる?」
「いなきゃいないでなんとかなる相手なのか、そうじゃないのかぐらいは、分かるだろ。」
哲は一番好きな人と結ばれることはない。本人もそれを望んでいない。その淋しさを不特定多数と関係することで埋めている。でも、きっと完全に埋まることはないのだろう。哲の紛らわせ方は、穴のあいたバケツに水を注いでいるようなものだ。倉田はそのバケツの穴、哲の「欠落」を補うに足る人物なのか、そうでないのか。涼矢は「足りない」と思っているのだろう。でも、目の前にいたら、そんな倉田でもすがってしまう哲の弱さを、涼矢は許さない。「倉田なんていなくたって大丈夫」という結論を出してほしくて、哲を遠くに行かせようとしている。和樹は哲に少しだけ嫉妬を覚えた。涼矢は自分に甘い。自分のすべてを許す。哲が涼矢にそんな風に「厳しく」されるのが羨ましかった。それだけ涼矢に認められているように思えた。そう思った矢先に。
「俺はダメだ。」涼矢は言った。「おまえがいなきゃダメだ。でも、そんなの、離れる前から知ってた。」和樹の心によぎった不安と焦りを見透かすように、涼矢はそんな言葉を口にした。ああ、また、こうして、甘やかされる。
「俺も。」と和樹は答えた。
涼矢は並んで歩く和樹の顔を、覗き込むようにして見た。「俺もって、どっち? おまえも俺がいなきゃダメってこと? それとも、俺がおまえなしじゃダメってことを、おまえも知ってたってこと?」
「めんどくせえな。」和樹は苦笑する。「どっちもだよ。」
「それは良かった。」
「あ、いっこだけあったわ。離れて初めて知ったこと。」
「ん?」
「おまえが案外、友達思いだってこと。」
「え?」
「哲のこと。なんやかんや、めっちゃ気にしてやってるし。柳瀬に対するのとは違う。あれはあれで大事に思っているんだろけど基本放置プレイだろ。でも、哲のことは、結構手間暇かけてやってるじゃない?」
「ああ……そうかもね。でもそれは、俺の問題ってより、あっちの問題だよな。柳瀬はほら、安定してるから。哲は……。」
「危うい。」
「そう。崖っぷちをヘラヘラ歩いてる。」
「……って、おまえは気付いてたんだ。俺は、能天気な野郎だなって思ってた。さっきまで。」そうだ、いつもそういうことに先に気付くのは涼矢だ。
「アムカの痕があった。」
「アムカ?」
「アームカット。リストカットは分かるよな? それの、手首じゃなくて、肘の内側。……あいつ、いつも長袖着てる。一回、教室の空調壊れて冷房効かなくて、めちゃくちゃ暑かった講義があって、その時、Tシャツの上に羽織ってた長袖シャツ脱いだんだけど、肘の内側に白い筋が何本かあった。最近の傷じゃないっぽかったけど。その時からかな、なんかあったのかなって。まあ、そもそも、いきなりああいう誘いをして来る奴だし、なんか抱えてるんだろうとは思ってたから、やっぱりなって思って。」
和樹は哲の姿を思い出す。確かに、焼肉の時も、今日も、この暑いのに、Tシャツの上には薄手ながら長袖のシャツを羽織っていた。「それで放っておけない、か。」
「でも、俺にできることなんかない。生半可に助けられない。あいつを助けられる人がいるとしたら、そういうのひっくるめて、ドーンと受け止めて、哲の全部を背負ってやれる人だけだと思う。半端な同情で助けて、やっぱり無理だなんて手を離す人じゃダメなんだ。そんなことになったら、あいつ、もっとひどいことになると思う。俺はそれが怖い。だから……。」
「倉田さんじゃ無理だと?」
「うん。……でも分からないよね。俺だって倉田さんのこと大して知らない。だから、留学して結論を先延ばしにしてほしいってのは、俺の、逃げでもあるんだ。」
「逃げじゃないってば。なんでおまえら、そうなのかねえ。頭良すぎるとそうなるのかなあ。もう少し前向きな言葉使ったほうがいいよ。言霊ってあるしさ。」
涼矢は和樹をチラリと見て、ほんのわずか微笑んで、「ありがと。」と言った。
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