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第153話 僕らの事情(12)

 2人は和樹の部屋に戻った。蒸し暑い。和樹がエアコンを入れる。いつもならそれと前後して涼矢が「コーヒーを淹れようか」と声をかけるが、今日はドリンクバーを散々飲んできたからだろう、その気配はない。 「言わないほうが良かったかな。」と部屋着に着替えながら、涼矢が呟いた。 「何が?」 「哲の……傷のこと。」 「なんで? 俺がショックを受けるかと思った?」和樹はふと、哲の腕の傷について、さほどのショックを受けていない自分に気が付いた。それよりも哲の話を聞いた時のショックのほうが大きすぎた。 「それもあるし、やっぱり、哲のプライバシーというか。」  そうか。涼矢は人から聞いた話を、それがどんなに他愛のないことであっても、勝手に別の人に話すことを躊躇う。そういう奴だった。 「でも、教室が暑けりゃ脱いだんだからさ。隠したいというより、人が見て驚いたら悪いとか、そう思ってるだけで、本人は気にしてないのかもよ。」 「そんな配慮をする奴かな。」涼矢は哲を心配したりプライバシーを気にかけたりしつつも、決して繊細な人間としては扱わない。最初から図々しい奴なのだと言っていたが、あんな話を聞いた後でもそこはブレないようだ。  和樹はベッドの上で、壁にもたれて、座った。それから、両脚を開いて、「涼矢、こっちおいで。」と手招きした。 「何すか。」犬でも呼ぶような言い方に笑いながら涼矢が来た。 「ここ。座って。俺に寄りかかって。」和樹は自分の中に涼矢を包み込むように、背中からハグをする。 「どうした?」  涼矢の、帰宅したばかりで少し汗のにおいのする髪に、顔を埋めた。「よく頑張ったねえ、きみたち。」涼矢の頭を撫でた。「俺、死にたいとか、自分で自分を傷つけたいとか、思ったことはない。そこまで辛いことってなかったから。だから、そうした時の気持ちは分かってやれないけど、頑張ったことは分かるよ。哲もきっと、頑張ったんだな。」  その辛さが分かる、とは言えないのは、涼矢とつきあってきたからだ。涼矢の過去の断片を知って、それがどれほど彼を傷つける出来事だったのかを知って、今でもその傷は完全には消えていないことも知って、消せないからこそ今の涼矢がいることを知って、だから、俺は、「分からない」と言えるようになった。以前の俺だったら、「分かる分かる」と簡単に言うか、そうでなければ、「そんなことやる奴の気がしれない、全然分からない」と言っていた。今「分からない」と言うのは、それとは違う「分からない」だ。  少し前までの俺は、自殺なんてどこか「弱い」人間のやることだと思っていたし、死ぬぐらいならなんでもできるだろうに、と思っていた。リスカでもアムカでも自傷行為についても同じだ。そんなことをして何になるんだろう、他にいくらでもやりようがあるだろうに、と思っていた。たとえば、得意なことや好きなことに没頭するとか。場合によっては空手でも習って腕力を強くするとか。どうしていいか分からないなら、家族や先生や信頼できる友達に相談するとか。――でも、それができないこともあるのだと。あるいは、やっても解決しないこともあるのだと。少なくとも涼矢は、得意なことも好きなこともあった。腕力だってそう弱いわけでもない。家族だって友達だって信頼関係はあったと思う。それでも彼は、辛かったのだ。1人で海に入って行くほどに。それについて、簡単に共感できるとは言えない。でも、涼矢がそれを「頑張って」乗り越えてきたってことなら、知っている。何度も傷ついて、その頑張りが報われるかどうか不安な中で、それでも頑張ったことなら、今の俺には、分かるんだ。  そして、哲もそうだったのかもしれないことを、今日、ついさっき、知った。 「……あいつは……まだ、頑張ってる真っ最中なんじゃないかな。アムカするのも、ビッチ気取るのも、同じなんだ、きっと。でも、そこから抜け出そうとしてる。」涼矢が言った。 「だから、倉田さんにすがりつきたい。」 「うん。藁をもつかむ気持ちで。」 「倉田さん、藁ですか。」 「藁だよ、あんなの。和樹にちょっかい出してる暇なんかないんだって、本気で哲をどうにかしたいなら。」 「じゃあ、俺は倉田さんの味方しよ。」 「なんでだよ。」 「だって、哲も留学するほうに傾いちゃったし、倉田さんの味方が1人もいないんじゃかわいそうだろ。それに、おまえにダメと言われ続ける彼に、ちょっと親近感が湧いてきてしまった。」 「おまえとあいつじゃ、ぜんっぜん違うから。親近感湧かせるな。」涼矢は振り向いて抗議した。  すかさず涼矢にキスをする。「はい出ましたー、涼矢くんのノロケー。」 「何の話だよっ。」涼矢はプイッとまた前を向く。 「哲の前でおまえノロケ過ぎ。俺どういう顔していいか分かんなかったっつの。」 「ノロケてなんかない。」 「本気で言ってんの?」 「哲もそんなこと言ってたけど、俺、ノロケた覚えはない。思ったことを正直に言っただけ。」 「それがノロケなの。俺にベタ惚れ過ぎでしょ。」 「何が悪い。」 「悪くないけど人前ではもう少し控えて。」

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