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第916話 二重奏 (2)

「すごい。……けど、それはなんか悪いよ。母さんの好きに使ったらいいのに。」 ――だから好きに使うのよ。 「自分の服とか。」 ――買ってるわよ、でも、それより和樹のね、スーツの一着ぐらいは用意してあげなきゃって思ってたのよ。そうそう、それだって田崎くんよ、田崎くんのお父様にZホテルのレストラン連れていっていただいたことがあったじゃない、あれからずっと気になってたのよ、そんな、いただきもののスーツがあるなんて知らなかったし。  再び責め口調になる恵に、和樹は慌てて「分かった、ありがとう」と礼を言って、黙らせた……つもりだったが、恵の話は止まらない。 ――とは言ってもそんなに高級なものは買ってあげられないけど、宏樹のスーツを買ったお店から割引券もちょうど来てたし。ああ、そうだ、写真はいつ撮るの? 「連休の中日。」 ――よかった、それならこっちに来てから買いに行っても間に合うわね。宏樹はほら、あの体型でしょ、サイズがなくてお直しに時間がかかったけど、和樹なら裾だけで大丈夫だと思うわ。 「うん。」 ――二着買ったら二着目は半額ですって。  どうやら手元にスーツショップのダイレクトメールを持ってしゃべっているらしい恵は、いつまでも会話を切り上げてくれそうにない。 「分かった、とりあえず行って見てから決めるから。こっち出る時、また連絡する。」  最後は若干強引に会話を打ち切った。  塾バイトの最終日、和樹の受け持つ最後の授業は思っていたよりあっけなく終わった。「都倉先生の最終授業」だということは公表していなかった上に、春期講習そのものはまだ日程を二日間ほど残していたせいもあるだろう。  使っていたロッカーもデスクも共用のものだったから、元々私物は置いていなかったし、久家に借りていた教授法の本はとっくに返した。あとは来た時と同じように帰れば、もうここに和樹の痕跡は残らないだろう。その久家は休みで挨拶はかなわなかった。 「都倉先生、お疲れ様でした。いつでも顔を見せに来て下さい。生徒は入れ替わってるかもしれませんが我々はいますので。」  最終日だからなのか、早坂がやけに優しい言葉をかけてくる。 「はい。ありがとうございます。教えたことより教わることが多くて、役に立てたのか分かんないですけど。」 「たいへん助かりましたよ。自分の、人を見る目に益々自信を持ちました。」  早坂が珍しくにっこりと笑った。褒められているのか微妙な気はしたが、がっかりされたのではないのならそれでいい、と和樹は思った。 「都倉くんは、案外……と言ったら申し訳ないけども、頭がいいよね。勘がいいというか。一度言ったことはすぐ覚えて。」  口を挟んだのは小嶋だった。「都倉先生」がいつの間にか「都倉くん」になっていて、もうこの人の「同僚」ではないのだと思う。 「教え方のことも熱心に研究してたんでしょ。やっぱり教員目指すのかな。」  小嶋はそう続けた。久家に借りた本のことを知っているに違いない。 「まだ迷ってます。教師に向いてるとも思えないし。」 「そんなの、向いてると思ってれば向くようになるって。」  小嶋は無責任にも聞こえるそんな言葉を放った。小嶋以外なら「調子のいいことを」と一蹴するだろうが、彼自身がそういった「気の持ちよう」で幾度となく病床から復活してきたことを思うと、あながち無責任とも言えないのかもしれない、という気になる。 「よかったらうちのパン屋にも来てね。はいこれ、お餞別。」一方では森川がそう言い、紙袋を渡してきた。「実家のパン。焼き菓子も入ってる。一人暮らしだって言うから、そうたくさんは入ってないけど。明日の朝ご飯の足しにはなるでしょ。」 「助かります。」  和樹は頭を軽く下げた。結局森川の実家のパン屋にはまだ行けていない。 「あらら、かぶっちゃったかしら。でも日持ちするものだからいいわよね。」  菊池もまた紙袋を差し出してきた。洋菓子の箱のようだ。 「ありがとうございます。」 「肝心の我々からは何もなくて申し訳ない。」  早坂が言った。 「いえ、こっちこそお世話になりっぱなしで。」  言いながら、もしかしたら自分の方こそ挨拶の品を持ってくるべきではなかったのかと思い至る。だが、今更だった。 「ありがとうございました。本当にお世話になりました。」  和樹は改めて早坂たちを見渡し頭を下げた。最後の最後にドアの外まで見送りに出てきてくれたのは小嶋だった。 「落ち着いたらうちに遊びに来なさいよ。久家も交えて食事でも。」  早口の言葉に和樹は頷き、塾を後にした。  本日最後まで自習室でねばっていた生徒を送り出したのが夜の十時、ちょうど一時間ほど前のことだ。もうすぐ三月、昼間は陽気も良く暖かな日だったが、こんな時間ともなると冷えこんだ。和樹は無意識に上着のポケットに手を入れようとして、両手が紙袋で塞がっていることを思い出した。森川のパンの袋を菊池のそれに入れてひとまとめにすると、まだ行き交う人の多い駅前商店街を通り抜け、帰りの電車に乗った。

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