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第919話 二重奏 (5)
まるで昨日もそうしたかのように、和樹は「ただいま」と言いながら、ずかずかと家の中に入った。
「おかえりなさい。早かったわね。」
恵は和樹の姿を見るや、キッチンに立ってお湯を沸かし始めた。
「うん。」
涼矢が車で迎えに来てくれたから。そんなことは一切説明しなかったが、恵はそう気に留める様子もない。
「疲れたでしょ。」
「平気だよ。あ、はい、これ。もらいものだけど。」
和樹は菊池からもらった菓子箱を差し出す。
「あら、ありがと。あとでみんなで食べましょ。」
「みんなって、みんないるの。」
「お夕飯には間に合うと思うわよ。最近、二人ともそんなに残業もなくて。」
「不景気だから? ま、そのほうがいいよね。」
「そうね。」
「母さんは? 今日はパートない日?」
「ええ、今は週末中心にシフトに入ってるの。春休みに入ったから、平日は学生さんが増えて。」
「すっかり慣れてる感じだね。」
「まだまだよ。和樹は辞めたのよね?」
「うん。」
「お疲れ様。塾の先生なんて、大変だったんじゃない?」
恵は和樹と自分の前に湯飲み茶碗を置き、椅子に座る。
「まあね。教育実習の予行にはなったかな。」
久家からは塾と学校とでは違うと釘を刺されたけれど。
「教職課程は続けるのね。宏樹が言ってたわ、昔より今のほうがすごく厳しいんですってね、教職って。その上サークルもバイトも、って大丈夫なのかって心配してた。」
「昔を知らないから分かんないけど。……まあ、どっちにしろ今年は就活も忙しくなるかもだし。バイトはそのへんが落ち着くまでできないかな。」
「ほどほどにね。うちはお父さんも宏樹もちゃんと働いてくれてるんだから、お金のことは心配しないで。」
「母さんも働いてる。」
「お母さんのは、ただのお小遣い稼ぎだもの。」
それなら自分だってそうだ、と言おうとして、やめた。口ではそう言っても、今までより凜々しく見える恵を見れば、仕事を通して、それなりの自信とプライドを身につけたことが見て取れる。
「仕送りだけじゃ足りない?」
と恵が続けた。
「そんなことない。飲み会とか断れば済む話で。」
「でも、そういうお友達とのコミュニケーションも大事でしょう?」
「そうでもないよ。」
飲み会に誘ってくるメンツは大抵決まっていて、ひとたび「呼べば来る」と思われると毎回つきあわなければならない気がして面倒だし、断ったからと言って無視されるといったこどもじみた嫌がらせをされるわけもない。そうでない仲間とだってSNSなりで繋がっている。大学で一番仲の良い渡辺海は、同じく教職を取っている上に他にもいろいろ手を出していて自分よりよほど忙しい。
「もうお酒が飲めるのね。」
「え?」
「飲み会に行くって。」
「いや、だから飲み会はあまり行かないけど。」
ちぐはぐな会話をしているうちに、和樹はようやく、恵は自分が二十歳を迎えた話をしているのだと気付いた。
「まだ飲んでないよ。」
「そうなの?」
「誕生日の後はそういう機会もなかったし。」
それは嘘だ。春休みに入る頃、クラスのメンバーにもサークル仲間にも何回か誘われた。ただ、最初に一緒に飲むのは涼矢だと決めていたから。涼矢が意外と酒に弱そうなのは心配だが、家で二人で飲む分には多少酔っ払っても問題はないだろう。
「お父さんの晩酌につきあってあげてよ。宏樹は禁酒したみたいだから。」
「禁酒? なんで?」
「禁酒というより、ダイエットかな。飲むとついおつまみを食べちゃうからついでにお酒も飲まないようにしてるんだって。スポーツしてないのに食べる量は変わってなかったから、そりゃ太るわよねえ。」
「コーチやってるんだろ、ラグビー部の。」
「選手と同じようには動かないでしょ。」
「そっか。」
大柄な宏樹だが、それでも筋肉の塊のような体だったから「大きい」とは思うが「太っている」という印象はない。
恵がカレンダーに目をやり、あ、という顔をする。
「でも、お父さん、今日は飲めないんだわ。」
「また出張?」
「明日、会社の健康診断なのよ。人間ドック。」
「ああ。……俺も明日はちょっと友達と約束してるから、メシ要らない……し、もしかしたらそのまま泊まるかも。」
「また? 和樹ったら、帰ってきても全然家にいないじゃない。」
「ごめん。」
「まあ、そのための帰省なんでしょうけど。」
恵は立ち上がり、湯飲みを片付け始めた。
恵の言う「そのための帰省」とは「友達と遊び回るための帰省」の意味なのだろうが、「涼矢と過ごすための帰省」だと言い当てられたようで、和樹は落ち着かない。
和樹は無言で立ち上がり、自室に向かった。
物置と化した部屋ではあったが、前回から更に物が増えたという感じもしなかった。ベッドはちゃんと寝られるようになっている。普段からこうなのか、和樹の帰省に合わせて恵が準備したのかは定かでない。
リュックを放り投げると、そのベッドに横たわった。今、東京の部屋に置いてあるベッドより狭いが、懐かしさもあって寝心地はいい。
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