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第920話 二重奏 (6)
和樹はいつの間にか睡魔に襲われ、恵が夕食を告げに来るまでぐっすりと眠り込んだ。
食卓には既に隆志も宏樹もいた。
「帰ってたんだ。」
腰掛けながら和樹が言う。
「こっちのセリフだ。おかえり。」
と宏樹が言う。
「元気にしてたか。」
隆志はさっぱりとした顔つきをしている。既に入浴も済ませているらしい。時計を見ると八時を回っていた。
「いつもこんな時間に夕食?」
「そうね、最近は。この時間なら二人共帰ってきてることが多いから。」
以前はもっと早く、七時前後だった。八時だろうが十時だろうが帰ってくる気配のない父親だったから、待つ必要もなかった。
「仕事、ヒマなの?」
「おまえなぁ、もうちょっと言い方ってもんがあるだろう。」
父親に向かって投げかけた素朴な疑問を宏樹にたしなめられる。
「え、別に、いいことじゃないの、残業残業よりはさ。」
「バイト先でもそんなだったのか? 仕事中の先輩に向かって、今ヒマですかって聞くか?」
「聞かないよ、みんな忙しそうだったし。」
「そうじゃなくて。」
「まだ和樹には分からないんだよ。」隆志が苦笑いした。「ヒマと言えばヒマだね。大口の仕事が立て続けにキャンセルになったりペンディングになったりして、仕事が減ったから。でもな、父さんは今総務のほうにいるからこんなこと言ってられるけど、営業さんは大変だ。ヒマどころか、あちこち駆けずり回ってる。父さんが営業にいた時も忙しかったけど、その時は忙しければ忙しい分、売上にもなったからねえ。今みたいに、こう空振りばかりじゃ辛いだろうな。」
「前は広報にいたんじゃないの。」
確か恵と知り合った頃は広報部にいて、だからキャンペーンガールをやっていた恵と知り合ったと聞いた覚えがある。
「広報にもいた。うちは一通りやらされるんだよ。」
「へえ。」
「ヒマな部署、ってのは基本的になかったね。」
最後にそう付け加えられて、和樹はようやく自分の失言を自覚したが、謝るにもタイミングを逃して、なんとなく気まずいまま会話が途絶えた。宏樹のほうをチラリと見ると、目の前の食事を細かくするのに集中していて、こちらの会話は聞いていないようだ。
「それ……何してんの。」
「ん? ああ、ダイエット。」
「細かくするのが?」
「一口を小さくして、少しずつ食べる習慣をつけるといいって聞いたから。」
「生徒と一緒に走り回れば。」
「あいつらと一緒に走ったら怪我するっての。体も重くなっちゃったし。」
宏樹は細かく切った肉片を、結局は箸の先でかき集めて口に入れる。それでは「一口ダイエット」になるのだろうか、と和樹は思う。
「そんなに太った感じもしないけど。」
「体重は減ったぐらいだ。でも、筋肉が脂肪になった感じで。階段上がるだけで息が切れるんだ。俺の担任してるクラス、四階だから結構しんどい。」
「エレベーターないの。」
「あるよ。生徒は使用禁止だけど、教師はいい。」
「だったら。」
「端にあって教室までが遠いし、若手の教員は使わない人が多くて、なんとなく使いづらい。」
「そんなの気にするんだ?」
「するよ。学校ほど同調圧力の強い職場はなかなかないんじゃないかな。生徒にいろいろルール押しつけてる手前、こっちも我慢しないとな。」
「えー、やだな。」
「やだよな。」
宏樹への批判的な言葉に同意されるとは思っておらず、和樹はびっくりして宏樹を見つめた。
「嫌なのに、やんの?」
「うん、まあ。今すぐどうこうは無理だけど、年数重ねていけば変えていけるものもあるかもしれんし、変な校則だなあとか、こんなの嫌だなあって気持ちは忘れないようにしてる。そういうもんだと慣れてしまったらいけないと思ってる。」
「ちょっと宏樹、そんなこと言って、上の人に目を付けられないでよ? 先生同士のいじめもあったりするんでしょ。」
「うちの学校はそこまでのことはないけど。まあ、私立だし、上の人間に睨まれたらまずいことはまずい。そこはうまくやってるよ。」
「働くって大変よね。」
恵はまとめのようにそう言い、ため息をつく。恵自身にもそう思うような出来事でもあったのだろうか。だが、その話の続きはなく、話題はマンションの管理組合から次期の役員をやってくれと言われて困っている話に変わった。
食後もぼんやりとそこにいた。父も兄も同様だ。もっとも、自分の部屋があるのは宏樹と自分だけで、両親は普段から家にいる間は基本的にこのリビングで過ごす。恵がお茶淹れましょうか、と言いながら、和樹が持ってきた菓子の箱をテーブルの中央に置いた。
「どうしたの、これ。」
宏樹の問いに和樹が答えた。
「俺が持ってきた。塾バイトの最終日に、事務の人がくれた。」
「へえ、可愛がられてたんだな。」
「うん、女の人。母さんと同じ年ぐらいかなあ。東京のお母さんだと思ってね、なんて言ってくれてて。チョコとか飴とかよくもらった。」
「塾の事務って何するの。」
恵は自分と同世代と聞いて、菊池に興味を持ったようだ。
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