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第160話 Someone Like You(7)

「ああもう、アホらし。」和樹はベッドにダイブするように倒れ込んで、大の字になった。「哲のことなんか、どうでもいい気がしてきた。」 「そんなこと言って、どうせお節介するんだろ。」涼矢はベッドの端に腰かけたまま、振り返って背後に寝そべる和樹を見た。 「お節介かなあ。」 「……そもそも俺の友達で、和樹とは関係ない人だったのにね。いつの間にかこんなに巻き込んで、悪いなって思ってるよ。」 「あんなの放置してたらおまえの貞操の危機だろうが。」 「俺のためですか。」 「そりゃそうだろ。」和樹は足で涼矢の背中を軽く蹴る。「それに、おまえの友達なら、俺と関係ないってことはないだろ。」  涼矢は体をよじり、微笑みながら、和樹にキスをした。 「さて、と。」涼矢は立ち上がった。「そんな優しい和樹さんのために、メシでも作ろうかな。何かリクエストある?」 「ハンバーグ。」 「また?」 「俺、毎日ハンバーグでもいい。でも、おまえが嫌なら、オムライス。」 「承知しました。ちょい足りないものもあるから、買い物行って来る。」 「俺も行く?」 「大丈夫。何かほかに買ってくるものある?」 「コンドーム。さっきので在庫ゼロ。スーパーでも売ってたよな?」 「やだよ、おばちゃんに紛れてそんなもん買えるか。それは明日にでも自分で買えよ。」 「今日の夜はどうすんだよ。」 「まだやる気かよ。」 「またムラムラするかもじゃない?」 「絶倫。」 「変態。」 「……とりあえずは俺のがあるから。」 「そんならいい。」  涼矢は和樹を指差した。「あのな、変態呼ばわりしている相手とセックスしたがるほうが変態だからな?」 「夜はメガネかけてしようね。」 「うっせえ、馬鹿。」涼矢は捨て台詞を吐いて、出て行った。  涼矢は1人でスーパーに向かう。考えてみると、和樹のところに来てから1人で出歩くのは初めてだ。とはいえ和樹と買い物などはしているから、駅周辺はだいたい把握している。  不思議な気分だった。涼矢は生まれた時から、今のX県の家に暮らしている。建物は一度建て替えているそうだが、物心つく前の話で、記憶の限りでは今の家だ。家の周りも、人の入れ替わりはあるし、一軒家がアパートになったり、個人商店がコンビニエンスストアに変わったりはしているものの、この19年間、大きくは変わっていない。和樹の家は、和樹の高校入学のタイミングで、社宅を出て引っ越したと聞いた。だが、同じ市内の話で、おそらくそれほど大きな環境の違いはないだろう。  それが今、和樹はこの東京で、1人で暮らしている。生活環境も人間関係も、ゼロからのスタート。それがどんな気分なのか、想像できそうで、できない。人付き合いに乏しい自覚のある涼矢でさえ、それは時に淋しく、心許ないものだろうと思う。友達の多い和樹なら尚更ではなかっただろうか。それとも、新たな出会いや憧れの都会暮らしに、心浮き立つほうが先だっただろうか。  歩いている道路沿いの家……戸建てながら、広い庭もなさそうなその家の前の、わずかなスペースには、プランターが並んでいて、色とりどりのペチュニアが咲いていた。コンクリートジャングルのイメージの強かった東京は、案外と公園や緑地もあるし、こんな風に工夫して狭い敷地でもガーデニングにいそしむ人も多い。そういったことも、涼矢は今回の上京で知った。過去に東京に来たことは何回かあるが、ほとんどはホテルとテーマパークの往復で、こういった普通の住宅街を歩くことはなかったのだ。 ――いつか、和樹と2人で暮らすのは、こういう街なんだろうか。  そんな日は本当に来るのだろうか。和樹は就職して会社員か。自分は弁護士になれているだろうか。……なれていなかったら、困るけど。なってもいないくせに、同棲しようなんてとてもじゃないが言えない。でも、なれたらなれたで、自分の母親の多忙さを思うと、少し心は暗くなる。同棲しても、和樹と一緒に過ごす時間なんて、ろくにないに違いない。  幼い我が子さえも犠牲にして、他人のために駆けずり回っていた母親。それを「犠牲」と言ってはいけないのかもしれない。犠牲と思ったなら、自分は弁護士を目指していない。母を立派だと思ったから、同じ仕事を志した。ただ、おそらくそういう職業の母親でなければ与えてもらえていた「何か」を自分は受け取れなかった。母親との密接な時間、母親と一緒の食卓、ねえママ聞いて、今日ね僕ね鉄棒でね……。そんなものは自分にはほとんどなかった。それが淋しかったのは事実だ。でも、淋しいことの何が悪いんだろう。淋しさを知っている人生は、そんな思いを知らないままで済む人生と同じぐらい価値があると思う。……少し前なら「知らない人生より価値がある」と嘯いていただろうけれど。  今は「同じぐらい良い」と思う。それは、和樹がいるからだ。和樹はきっと、孤独でもなく、淋しさも知らないこどもだっただろう。でも、そのことが、彼のあの素直さにつながっている。無条件に弱者に手を差し伸べる優しさにつながっている。  だから、俺にはおまえが必要なんだ。ともすれば座標軸から外れてしまうらしい俺は、おまえを原点にすることで、正しい方向に進んでいけるから。

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