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第929話 カルテット (1)

 涼矢が微妙に困った顔をするのを見て、和樹はつい吹き出す。 「あの後、飲んでるの?」 「飲んでないよ。」  涼矢は苦虫を噛み潰したような顔で即答する。つまり「あの後」が指している出来事について、はっきりした自覚があるようだ。  去年の夏。明生やエミリも一緒にディズニーランドに行った。楽しい一日の締めくくりは和樹の部屋での夕食になるはずだった。だが、まずはエミリが酔っ払って泣き上戸と化し、涼矢はやたらと和樹に甘えた。それだけならまだよかった。問題は、その醜態を明生に目撃されたことだ。特に、和樹とのキスシーン。 「逆に特訓してるかと思った。佐江子さんの晩酌につきあったりしてさ。」  和樹がそんな軽口を叩くと、益々不愉快そうに顔をしかめた。 「それも考えたけど……母親の前であんななるのは、ちょっとな。」 「でも、俺ら二人だったら。」 「二人しておかしくなったらどうするよ。」 「俺は大丈夫だと思う。」 「何を根拠に。」 「親父も兄貴も飲めるし。」 「宏樹さん、そんなに飲む印象ないけど。」 「ヒロは真面目だから、節度を守ってるだけ。飲もうと思えば飲める。」  ヒロは真面目。つい最近、同じことを本人を前にして言った。そう、涼矢もヒロも真面目なのだ。和樹はつくづくそう思う。もちろんそれが悪いとは言わないが、そこまでのストイックさを持ち合わせていない身としては居心地が悪いこともある。 「……まあ、ちょうどいい機会か。二人で飲むならどっちかがストッパーにはなるだろ。」  それでも涼矢は和樹の希望を無碍にすることはしなかった。 「じゃあ、買い出しに行く? 夕飯の材料とか。」  そんな和樹の言葉にはすぐに返答せず、涼矢は時計を見る。午後六時を少し回ったところだ。佐江子の帰宅はおそらく日付が変わる頃だろう。今から軽く飲みながら夕食を取り、八時頃までには切り上げるようにさえすれば、多少酔っ払ったとしても佐江子が戻る頃には落ち着いてもいるだろう。そんな算段を付けつつ、同時に今家にある酒類のラインナップを思い浮かべる。佐江子の趣味でビールもワインもウィスキーも焼酎も日本酒も揃っている。だが、いきなりウィスキーや日本酒というのはやめたほうがいいだろう。やはりここはビールが妥当か。 「いや、夕飯の材料はある。酒も。」 「そっか、ワインセラーまであるんだもんな。」 「……ワインはやめておこう。」 「なんでもいいよ。」 「じゃあ、ちょっと早いけどメシにして、つまみながら飲むか。空腹で飲むのは良くないらしいし。」 「涼矢、昼も食ってないんだろ?」 「……そうだった。忘れてた。」 「俺のために、な?」 「そうだよ。俺はいつでもおまえのために頑張ってる。」  和樹はハハッと笑う。 「そんな涼矢くんに感謝の意を込めて、夕飯作りを手伝ってやろう。」 「そこは、作ってやろう、じゃないのかよ。」 「無理。」  そんなことを言い合いながら、二人は階下へと降りた。 「和樹、その前に風呂使えよ。」  涼矢の声に被るように、お風呂を沸かします、という女性の声がした。 「あー、うん。」  和樹は何か言いたげに上目遣いで涼矢を見た。 「一緒に入る?」 「……うん。」  和樹ははにかんだように微笑んだ。 「あ、着替え、忘れてた。おまえのも持ってくる。なんでもいいよな?」 「うん。」  うん、うん、と頷くばかりの和樹は、しかし表情は豊かにくるくると変わり、幼いこどものように見えた。さっきまであんな痴態をさらしていたとは思えない。そんなことを思いながら、涼矢は自室に戻る。  ダイニングに戻って間もなくして、さっきの女性の声が「お風呂が沸きました」と告げた。二人で前後してバスルームに向かう。 「いいなあ、広い風呂。」  湯船に浸かって、和樹がしみじみと言う。その下にいる涼矢が笑う。 「それほど広くはないと思うけど、和樹の部屋の風呂はさすがに狭いよな。」 「部屋探してたとき、もう少し広い風呂場のとこもあったんだけど、大抵ユニットバスでさ。俺、どうしてもトイレと風呂は別々がよくて。」 「なんで?」 「誰かが風呂入ってるときにトイレしたくなったら困るだろ。」 「誰かって……しょっちゅう誰かが来るわけじゃないだろ。しかも、おまえんちの風呂に入る関係で。」  涼矢の言葉には、どこか咎めるような響きがあった。 「そうなんだよな。考えてみりゃその通りだったんだ。結局それが役に立ったのって、エミリが来てたときぐらいで。」和樹は風呂の湯で顔を洗う。「それも、エミリは風呂は外で済ませてきて、うちの風呂使わなかったし。」 「外? 銭湯?」 「いや、エミリんとこ体育大学だから、シャワー室とか充実してるらしくて。」 「ああ、なるほど。」 「ヒロは使っただろうけど、俺は入院してたしな。」 「そっか。」  和樹はくるりと後ろを向き、ニッと口角を上げた。「安心した?」  涼矢は照れくさそうに笑い、指先で水面を弾き、飛沫を和樹にかけた。 「何すんだよ。」  和樹も手で水鉄砲を作り、涼矢に向ける。 「こどもか。」  その水が口にでも入ったのか、むせながら涼矢が言った。

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