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第930話 カルテット (2)
風呂から上がると、二人してスウェットの上下を身に着ける。色違いで、紺を涼矢が、グレーを和樹が着た。なんということはない、どこにでもある無地のスウェットだが、和樹はどうしてだか違和感を覚える。
「これ、前も貸してくれたよな。」
「そうだっけ。ま、家にいる時は大体これだからそうかも。」
「前の時は、色、逆だった。俺が紺で。」
自分でそう言って、違和感の理由を知った。そうだ、前は涼矢がグレーを着ていたんだ。
「変なこと覚えてるな。」
「だな。」
変なこと、と言うよりは些細なことと言うべきかもしれない。
東京にひとりでいる時もそうだ。涼矢を思い浮かべようとすると、たとえば遊園地でツーショット写真を撮った時の笑顔とか、自転車で遠出をした時の海を見つめる横顔だとか、台風の中ずぶぬれで立ち尽くしていた姿とか、そういういかにもな「特別な場面」の涼矢の表情ではなくて、餃子の包み方を教えてくれる時の手つきだとか、コーヒー豆の缶を片手に「飲む?」と尋ねる声だとか、スマホの画面に目を落とす時の意外に長い睫毛だとか、そういった細部ばかりがまっさきに浮かぶ。
そこからカメラがパンするように徐々に周囲の様子も浮かんできて、ようやく「ああ、あの時の」と分かる。
「思い出した。」
「ん?」
「これ着てたの、佐江子さんに口紅あげた時だ。」
「……和樹が口紅あげてたのは覚えてるけど。」
「おまえが言ったんだ。ペアルックだ、って。それを佐江子さんがどう思ったか、気にしてた。」
「気にしないよ、そんなの。」
「その時はそう言ってた。」
「忘れた。」
「ま、どうでもいいけど。」
涼矢がドライヤーで髪を乾かし始め、その音で会話が途絶えた。
手持ち無沙汰の和樹は、冷蔵庫を開ける。初めて佐江子に見つかった時以来、涼矢の家の冷蔵庫を開けるのは緊張を伴うのだが、夕食の支度をする上で何かできそうなことはないかと思ってのことだった。もしかしたら涼矢が既に用意した料理があるかもしれない。それを電子レンジで温める程度のことはできる。
だが、そういった「チンするだけ」の料理は見当たらなかった。それ以上勝手に冷蔵庫を探索するのは行き過ぎというものだろう。
結果的には髪を乾かし終えた涼矢が調理全般をやり、和樹は涼矢に指示されるとおりに皿を出したり、簡単な盛り付けをしたりするだけだった。
「で、酒はどうする? 缶ビールでいい?」
最後の仕上げのように、涼矢が言った。
「ワインかビールのどっちかなの?」
「いや、あるんだけどさ、いろいろ。日本酒も、ウィスキーも。あと焼酎も。……でも、初心者に飲みやすいものはない、かな。」
「初心者というと? レモンサワーみたいな?」
「そう。甘い系とか、度数低めのものはない。佐江子さんの趣味だから。ウィスキーや焼酎を水で割れば度数は低くなるんだろうけど。ああ、あと梅酒はある。」
「割るのは面倒だな。」
「うん。」
「それで結局、ビールというわけか。」
「そう。」
涼矢はロング缶を一本、冷蔵庫から取り出した。
「でかくね?」
「二人分のつもり。」
「ああ、そっか。」
「このぐらいの量なら、たぶん。」
「大丈夫?」
「……たぶん。」
「自信なさそ。よっぽどアレが堪えたんだな?」
和樹が笑う。涼矢はそれには何も答えずにグラスにビールを注いだ。
「えーっと、じゃあ、和樹さん、二十歳の誕生日おめでとう。」
「あ、これ誕生会なの?」
「てわけでもないけど。ケーキも用意してないし。でもまあ、一応。」
「一応、ね。はいはい、ありがとう。」
カツンとグラスを合わせ、それぞれ口に含む。
「にが。」と和樹が顔をしかめた。
「まるっきり初めて?」
「親父が飲んでるのを舐めたことぐらいはあるよ。苦いけど、大人になればこれも美味しくなるのかなと思ってた。」
「ならなかった?」
「美味くはないな。飲めなくはないけど。おまえは平気な顔して飲んでたっけな?」
「平気じゃなかったけどね。」
「ハハ、そうだった。」
「でも、あの時は、作るばかりであんまり食ってなかったし。」
「朝からディズニーで疲れてたし。」
「そうそう。だから、今日はもうちょっとマシだと。」
「別に俺は構わねえけど? 酔っぱらってる涼矢、結構可愛かった。」
「妙なこと思い出させんな。」
「仕方ないだろ、さっきからおまえの態度が妙なんだから。」
「……。」
指摘に何も言い返せないまま、涼矢は食事を始めた。献立はとりたてて手の込んだものではないけれど、和樹の好きなハンバーグをメインに据えてはみた。和樹が来る前にあとは焼くだけという状態まで作ってあり、さっき火を入れた。
「うんめっ。」
それを口いっぱい頬張る和樹を見れば、自然と涼矢の顔もほころんだ。そうと知ったら、きっと和樹は「おかんか」と言って笑うのだろう。好物を食べて満足気に笑う顔が見たいのが親心だと言うなら、確かに自分はそれに似た庇護欲を和樹に対して抱いている。だがそれと同じぐらい、自分一人の手の内に束縛したいと思うし、その自分の手でめちゃくちゃにしてやりたいとも思うのだ。と言っても「傷つけたい」のではない。ただ俺無しでは生きていけないようにしたくてたまらない。雛鳥を飢えさせないよう餌を与えるのは親鳥の本能だろうが、その時の親鳥には、そんな風に自分なくして生きていけない存在に陶酔する気持ちは微塵もないのだろうか。――俺にはある。そんな風に利己的な愛は、ちっとも「おかん」ではないと思う。
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