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第932話 カルテット (4)
涼矢は黒目だけを上に向けて、記憶をたぐり寄せる。そう言われてみればそうだった。それで自分はエミリと明生を連れてスーパーに行き、エミリが缶ビールをカゴに放り込んだのだ。生意気にも、女の子が一人暮らしの男の部屋で酒なんか飲むもんじゃない、とたしなめた記憶まで蘇る。エミリのためを思っての言葉ではあったけれど、いつかするはずの、「成人した和樹と酒を酌み交わす」という特別イベントの邪魔をされたくない気持ちもあった。いざそれを実行できた今となっては、そう大したイベントでもなかったが。
「ごめん。」
素直に謝る涼矢を見て、和樹は呆れ顔をしつつ笑う。
「記憶を自分に都合よく捏造しないでくださーい。」
「ごめんて。思い出したよ。俺が悪かった。」
謝りながら、記憶なんてものは実に自分に都合良くできているものだ、と思う。――美術部の先輩のことだって、和樹に話すまで本当に忘れてたんだ。好きだったのに。確かに、好きだったはずなのに。
「おい、マジでへこむなよ? 本気で怒ってねえよ。」
急に押し黙った涼矢に和樹は焦る。
「ん、へこんでない。……あの、さ。会ったんだよな? その、俺の、中学のときの。」
「ああ、香椎先輩?」
香椎文彦。その名前すら、和樹の口から出てくるまで、忘れていた。
「うん。別に、気になってるとかじゃないけど、ふと、その話思い出して。すごい偶然もあるもんだなって。」
「ハハ。めっちゃ気になってるだろ、それ。」和樹は残りのビールを飲み干すと、涼矢の前に置いてあった二本目の缶ビールに手を伸ばした。持ち上げるとそれは軽くて、ほとんど残っていないようだ。「おまえ、ピッチ速いって。」
「注いだだけで、飲んでないよ。」
涼矢はそう言うが、二本目を開けなみなみと注いだはずのグラスには、もう既に半分ほどしか残っていない。和樹はそれを気にしつつも、缶にわずかに残ったビールを自分のグラスに注ぐ。案の定、缶をいくら傾けても細身のグラスにほんの二cmほどたまっただけだ。
「いい人だったよ。まあ、短時間だったから深くは分からないけど。今は彼氏と同棲してて、幸せそうだった。」
「うん、よかった。」
「……中学生だったんだもんな。」
「え?」
「あの人とおまえ。」
「ああ、うん。」
「お互い好きってこと知ってて。」
「何もなかったよ。」
「うん。だから、それって中学生だったからで。」
「そうだけど、中学生でももう少し積極的な奴なら違ったんだろうな。でも、俺はこんなで、中学の頃なんか輪をかけて内向的だったし、あっちも似たようなタイプだったから。今思うと会話だってろくにしてなかった。」
それは和樹を安心させるための嘘なのか、本当にそうだったのかを確かめる術はないが、たぶんその通りだったのだろうと和樹は思った。
「男同士だったから、とは言わないんだな?」
「え?」
「恋愛経験の少ない中学生だったから戸惑ってた。内向的だったから、言い出せなかった。それはそうなんだろうけどさ。そこに、男同士だから、って理由もあったわけだろ? つか、それが踏み込めなかった最大の理由じゃないの。」
「……。」
「俺への気遣い? 俺を引きずり込んだっていまだに思ってんの?」
「いや、そんなことは。」
「あるだろ?」
「……あるけど。」
和樹は笑う。「嘘、つけねえのな? でも、そのほうがいいよ。」和樹は椅子の背もたれに体重を預ける。酔ったつもりはないが、なんとなくだるい。
「悪いな、って思ってる。けど、だからって我慢して黙ってることはもうできないし。確かにそれは、中学生の頃とは違う。高校の頃とも。」
「うん。そうだな。」
「わがままになったよね、俺。」
「いいんじゃない? わがままぐらいぶつけてくださいよぉ。そういう仲でしょうが。」
和樹はへらへらと笑って、二cm分のビールを飲み干した。
「優しいね、和樹さんは。あ、ビール空いた? もう一本……」
「要らねえ。今度こそ本当に要らねえ。」
何本出したところで、あらかた涼矢が飲んでしまいそうなことを察して、和樹は断った。
「酔った?」
「酔ってないよ、ほとんどおまえが飲んでるだろ。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
「でも、ほら、今日は大丈夫、だろ?」
涼矢は背筋をピンと伸ばして、わざと眉に力を込め、キリリとした顔つきをしてみせた。
「全然大丈夫じゃねえよ、なんだよ、その顔。」
和樹につられて、涼矢も笑う。
「もう、食べ終わった?」
「ん、ごちそうさま。美味かった。片付けは俺がするから。」
「いいよ、誕生会だし。」
涼矢はそう言うと自分のグラスに残っていたビールを一気に飲み干した。和樹が止める間もなかった。それでも特に足元がふらつくといったこともなく、空いた皿を片付け始める。
「ごめんな。」
「いいって。」
しかしその謝罪は、皿洗いを押しつけたことに対するものではなかった。
――ごめんな、涼矢。おまえを好きでいることが、少し、疲れるなんて思って。
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