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第935話 カルテット (7)

 ローソファに並んで座っている。キスできるほど密着して、だ。ソファはテレビの正面にあるが、画面は暗いまま。それを佐江子は不審に思わないのだろうか。和樹は考える。――いや、「不審」ではないだろう。二人の関係を知っているのだから。ただ、自分の息子が直前まで恋人といちゃついていた気配に対して、どんな感情を持つのだろう。ヒロは……ひとつの布団で抱き合って寝ていた俺たちを目撃したヒロは、俺たちの関係を知っていてもあんなにも狼狽えていたけれど、彼女は意にも介していない様子だ。でも、だからといって何とも感じないとは限らない。「意にも介していない様子」まで含めて、彼女の気遣いかもしれない可能性だってある。 ――こんなところでセックスして、スリルだの予測不能だのとおもしろがっていいものではなかったんじゃないか? 「俺が来るって、言ってあったの?」 「うん。ハンバーグ仕込んでるの見て、おまえが帰ってくるのか?って聞いてたから。」 「ハンバーグでバレんの?」 「おふくろ用にはあんまり作らないんだよ。そういうのは酒の肴にならないって言うから。」 「……はあ。」  和樹は頭を抱える。 「何がそんなに気になるの。今の佐江子さん見たろ? 平気だろ?」 「ああ、まあな。けど、なんかさ、それに甘えちゃいけない気がする。」 「甘える?」 「佐江子さんがああいう感じでいてくれるのはすげえ助かるけど、それは佐江子さんの懐の大きさのおかげであってだな。」  考えをまとめようとしながら話していると、寝室のドアが開いた。 「私のこと、佐江子さんって呼んでくれてるの?」 「いっ。」  和樹の口から妙な声が出てしまう。 「なんかいいね、友達みたいで。」 「す、すみません。……あ、あの、今の話……。」 「聞こえてないよ。自分の名前だけは聞こえたけど。そういうことってあるでしょ? それに悪口じゃなさそうってのも分かった。」 「はあ、でも、すみません。名前で呼ぶとか。」 「いいって。おばさん呼ばわりされるよりずっといい。」 「そういうの気にしてたっけ。」と言ったのは涼矢だ。 「気にしてないよ。でも、名前を知ってる間柄なら、名前で呼んだほうがいいじゃない? 特に女はねえ、誰くんのママとか、誰さんの奥さんとか呼ばれてばっかりだから、名前を呼ばれると嬉しいもんだわ。あ、私も今度から都倉くんのこと和樹くんって呼ぼうかな。」 「ど、どうぞ、お好きに呼んで下さい。」 「涼矢はなんて呼んでるの?」 「あ? 和樹だけど。」 「なんだ、普通だ。」 「何を期待してんだよ。」  佐江子は喋りながら冷蔵庫を開ける。「ビール、飲んだの?」本数が減っているのに気付いたようだ。 「飲んだ。」 「二人で?」 「ああ。」 「そっか、和樹くんも二十歳だ。」佐江子はビールをやめた様子で、代わりにセラーから出した赤ワインを手にして涼矢の背後に立った。 「お願いしまーす。」  ソムリエナイフとワインボトルを涼矢に差し出す。涼矢は呆れた顔で佐江子を見上げるが、何も言わずに開栓する。 「サンキュ。ね、夕飯、何食べたの? おつまみになるようなもの残ってない?」 「ハンバーグ。母さんの分は作ってないし、茹でたじゃが芋ぐらいしか残ってない。」  ハンバーグの付け合わせにした芋だ。 「じゃあ、それにチーズのっけてチンしよっと。」 「美味(うま)そ。」  反射的に口走った和樹の言葉に、佐江子はニッと笑う。 「だってよ、涼矢? 二次会の準備してよ。」 「はあ?」 「明日も早いから、私一人じゃ一本は空けられないし。」 「早くなきゃ空ける気だったのかよ。」  そう言いつつも涼矢は立ち上がり、キッチンに向かう。ソファに取り残された和樹は、涼矢についていくべきか、佐江子の相手をしにダイニングテーブルに移動すべきかを逡巡した。 「どのぐらい食える?」 「私? 和樹くん?」 「両方。」 「私も軽く食べてはいるんだ。おにぎり一個だけど。だからそんなには要らない。ほんと、つまむ程度で。」  佐江子の返事に頷いた涼矢が、和樹に視線を移す。 「俺は……腹は減ってないけど、見たらなんでも食べたくなりそう。」 「なんだよ、それ。」  涼矢は苦笑しながらも何かしらの献立は思いついたようで、ストックケースから玉ねぎを取り出した。 「分かる分かる。目が食べたがるってやつよね。」  佐江子がにこにこしながらグラスを三つ、テーブルに置いた。そこにワインを注ごうとするのを見て、和樹は慌ててテーブルに向かった。 「俺、やります。」 「そう? ありがと。」 「あんまり、つか、全然知らないですけど。注ぎ方のルール。」 「ルールなんかある?」 「ラベルを上に向けなきゃいけないとか、聞いたことあります。」 「ああ、そういうのね。私はその手のマナーは全然無頓着だからなあ。」 「参考にならないよ。この人、飲めればいいってタイプだから。」  背中を向けたまま涼矢が言う。トントン、とリズミカルな包丁の音も聞こえてきた。

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