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第936話 カルテット (8)

「美味しく、が抜けてる。私は、美味しく、飲めればいいの。」佐江子は、美味しく、を強調して言った。それからワインを注ぎ終えた和樹にグッドジョブとばかりにサムアップをしてみせると、椅子に座るように手と視線で示した。「美味しく飲むためには、その場にいる人を不快にさせてはいけないでしょ? 一人ならともかく、誰かと一緒ならね。一緒にいる人に恥をかかせたり、他のお客さんに気まずい思いをさせたりしない、マナーやエチケットってそういうことだと思うけど。」 「なるほど……。」 「ラベルは上に向けて注いで、目上の人と乾杯する時は自分のグラスは相手より低くして、なんてのをいくら守ったところで、クチャクチャ食べたり、誰かが蚊帳の外になるような内輪受けの会話をしたり、店員さんに威圧的な態度を取ったりしたら興醒め。マナーの意味なんかないし、逆に言えばそういう配慮の気持ちが見えていれば、どんなに偉い人だってそうそうマナー違反だーなんて怒らないんじゃない?」  和樹の脳裏には哲の姿が思い浮かんだ。箸の持ち方もなっておらず、皿に顔を近づけて犬食いのように食べる哲を、確かに怒る気持ちにはならなかったけれど、不快には感じた。年配者なら余計そうだろう。あれではこの先「偉い人」との会食の場で不興を買うことがないとは言えない。あれは哲に配慮の気持ちがないせいなのだろうか。実際、傍若無人な奴ではある。でも、何も気にしてないわけではないはずだった。少なくとも、そういった躾を受けてこなかったことに引け目は感じているようだった。それに、他人の気持ちにも(さと)い。そういった繊細さで言えば、涼矢よりよほど敏感に見えた。ただ、その繊細さを、思いやりではなく他人の弱みにつけこむことに利用するのが気に入らなかった。  途切れた会話を補うように佐江子が言った。 「ま、私の立場だから言えるんだけどね。それなりに年も取って、曲がりなりにもセンセイなんて呼ばれちゃうこともある立場だから。」  先生と呼ばれる立場、と言われて、佐江子が弁護士であることを思い出す。 「そんなこと気にしなくていい、と言えるのは特権を持ってる立場だからで、そう言われたって持たざる者は気にせざるを得ない。気にしなくていいと言いながら弱者を踏みつけてる強者はたくさんいて、踏まれてる側の我慢の上に自分が立ってることに気付かない。どの口で気にするな、って言ってるんだって話よね。」  佐江子の言葉はもはや独り言で、和樹の反応を期待している様子はない。和樹は和樹で佐江子が何を言いたいのか分からなくなっていたから、それでちょうどよかった。ラベルの向きの話からどうしてこうなったんだっけ、と思っていると佐江子がふいに振り向いて、涼矢に声をかけた。 「涼、一瞬こっち来て。乾杯だけしようよ。」  涼矢は素直に手を止め、テーブルにやってくる。「こんなに飲めるか?」  和樹が注いだ赤ワインはグラスの半分ほどだ。グラス自体が赤ワイン用の口の広い大きなもので、本当ならもっと少量ずつ注ぐべきなのだろうが、そんな知識も経験もない和樹はよく分からないまま多く入れてしまったのだろう。 「大丈夫よ。」  佐江子が無責任に言い放つ。 「和樹は今日初めて酒飲むんだぞ。」 「あなたは初めてじゃないの?」  ぐ、と涼矢が押し黙る。 「うち来たとき、他の友達もいて、あ、そいつも成人してるんですけど、そこでビール飲んでました。……でも、全然大丈夫だったですよ。ワインは二人共初めてですけど。」  和樹は一部嘘をついた。ビールを飲んだときだって、「全然大丈夫」ではなかった。 「和樹くん、今日泊まっていくでしょ? だったら多少酔っ払ったってなんとかなる。」 「……俺は知らねえからな。」  涼矢がぼそりと文句を言うが、佐江子は無視して「乾杯」を宣言した。そのくせグラスに真っ先に口を付けたのは涼矢だった。 「あれ、意外と美味い。」 「これねえ、高かったのよ。」  佐江子はボトルを回転させて、ワインのラベル(エチケット)を二人に見せた。 「見たって分かんねえよ。」 「え、でも、これ。この年号って。」  和樹が四桁の数字を指差した。 「ん?」  涼矢がその指先を覗き込む。 「そ。これ、あなた方の生まれ年のワイン。あ、和樹くんは一年プラスか。そこはご愛敬で勘弁して。」 「そんなの、そんな大切なもの、こんなタイミングで飲んじゃダメだったんじゃないですか。」  和樹は焦って佐江子を見た。 「あら、このタイミングだからでしょうよ。嬉しいな、夢だったんだもの、成人した息子とこれ飲むの。」 「家族で飲む予定だったってことでしょう、余計にダメじゃないですか。今日はお父さんもいないし。」 「大丈夫よ、これケース買いしてあるの。まだあと十一本ある。」 「マジかよ。」涼矢が珍しく声を上げて笑った。 「そう言えばこれもアリス繋がりだ。あなたが生まれたときのお祝いだったんだよね。今年のワインなら将来の楽しみになるんじゃないかって、個人向けには卸してないお勧めの銘柄のワインを業者の伝手使って予約できるよう、手配してくれたの。まあ、アリスのほうもなかなか資金繰りが厳しい時期だったから、アイディアだけいただいてお金は払ったんだけど、これがまあ高くて。」 「高いのは分かったよ、確かに美味いよ。」

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