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第937話 カルテット (9)
「でも、今となったら安いもんだわ。そのおかげでこういう時間が過ごせるんだもんね。アリスに感謝しなくちゃ。」
「で、また、感謝しなきゃならないことが増えるわけか。」
「ああ、成人式の写真?」
「それもだけど銀婚式がメインだろ。」
「そうだった。まだピンと来ないや。」
佐江子は上機嫌にワインを飲む。
「……なんか、すみません。」
「何が?」
突然の和樹の謝罪に、佐江子と涼矢の声が重なった。
「便乗してばっかりで。家族で祝う席なのに……あの、邪魔だったらそう言ってくれたら、俺は、全然、その。」
「何言ってんの。そういうつもりで言ったんじゃないって。そう聞こえてたらごめんね。私はね、嬉しいのよ、本当に。二十歳どころか一歳の誕生日を祝えるかも分からないって言われてた子が、こんな大きく育ってくれたのも……その子があなたを見つけたことも、あなたがこの子を見つけてくれたこともね。」
ガタッと音がした。涼矢が席を立ったのだ。
「料理の続き。……この人、出来上がる前に飲み干しそうだし。」
涼矢はキッチンのほうへと戻っていくが、涼矢も佐江子も飲み干す勢いどころか味見をする程度にしか飲んでいないし、和樹に至ってはまだ口も付けていない。
「照れてるのよ、あれでも。」
佐江子が小声で言う。
そのぐらい俺だって分かってる。和樹は佐江子に張り合うようにそう思い、すぐにそう思ったことを申し訳なく思った。
「いただきます。」
和樹は意を決した面持ちでワイングラスを傾けた。ワインの香りが思ったより強い。香りだけで酔ってしまいそうだと思う。
「ごくごく飲むんじゃなくて、少量を口に含む感じでね。」
佐江子のアドバイスに従い、少しだけ口に入れたものの、含む感じ、というのがよく分からずすぐに飲み込んでしまい、次の瞬間に激しくむせた。
「大丈夫?」
「ず、ずみません。」
「慣れないと無理かな。」
「いえ、今のは、ちょっと、思ったよりたくさん口に入っちゃったみたいで。」
「無理しなくていいから。」
「大丈夫です。」
和樹は再びグラスを傾ける。今度はより注意して、舌の上に載せるように、ほんの少しを含んでみた。さっきより更に強い香りが鼻腔を抜けていく。美味しいかどうかは、正直よく分からない。ビールに感じた苦みはないが、ビールにあった爽やかさもない。舌に残る渋みを旨みと感じることも難しく、だとしたら、総じては「美味しくはない」ということになるのだが、自分と同じようについさっき初めてこれを味わったはずの涼矢が躊躇いなく「美味しい」と言ってのけたことが気に障る。和樹はお子様舌だから、と馬鹿にされそうだ。
「こっちできるまで、これでも食べてて。」
涼矢が持ってきたのはチーズだ。何種類かの生チーズが盛り合わせてあり、クラッカーのほか干しぶどうなんてものまでご丁寧に添えられている。
「これと合うかも。」
佐江子はその中の一種を選び、クラッカーに載せた。そのふにゃりとした感触は見た目からでも分かる。それを和樹に差し出しながら説明した。
「匂いが気になるかもしれないけど、味はそんなにクセはないよ。」
先に言ってもらっておいて良かった、と和樹は思った。口元に近づけるだけで独特の匂いがする。悪臭と言っていい。それでも佐江子に勧められたのだからと我慢して一口食べてみる。確かに味は匂いほどの刺激はない。ただ、口に入れた分、匂いが余計に強烈だ。
「そこで、はい、ワイン飲む。」
突然の指示に、和樹は否応なしに従った。
「あ、美味しい。」
ワインの渋みと、チーズの強烈な匂い。どちらも決して美味しさとは結びつくものではなかったはずなのに、その二つがひとつになると、華やかで濃厚な旨みを感じた。
「ね。不思議よね。」佐江子も和樹に渡したものと同じようにチーズを載せたクラッカーを口にする。「こんな風にね、ワインと、そのワインに相性のいい食べ物を一緒に口にすると、相乗効果で何倍も美味しくなることをマリアージュって言うの。結婚、て意味ね。」
「結婚……。」
「そう。気難しい誰かさんと、わがままな誰かさんが結婚したら、あら不思議、お互いの欠点を補い合って、更にはお互いの長所を伸ばし合って、一人じゃ味わえない幸福を手に入れる、ってところかな。」
「理想的ですね。」
「そうね。現実の結婚はなかなかそうは行かない。」
佐江子が笑う。
「でも、銀婚式、ですよね? おめでとうございます。……あ、フライングか。」
「ふふ、ありがとう。おたくのご両親だって似たようなものなんじゃない? 宏樹くんの年を考えたら。」
「そうだと思うんだけど、よく知らなくて。」
「なんなら合同銀婚式にする? 合同成人式と。」
「いやぁ、それはちょっと。」
口籠もる和樹に助け船を出すように、涼矢がやってくる。
「余計なこと言うなって。」そう言いながら、テーブルの中央に料理の皿を置いた。「チーズは被るからやめたけど、じゃがいものガレット。」
「うわ、美味そう。」
「玉ねぎは?」
「あれはもう少し時間かかる。」
涼矢は椅子に着くなり振り返り、背後のオーブンに視線を向けた。それだけで何を作るのか察した表情を浮かべる佐江子を見て、和樹は少々複雑な気持ちになる。
「じゃあ、仕切り直しで、乾杯。」
佐江子が言い、再び三人でグラスを合わせた。
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