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第939話 カルテット (11)
「せっかく香りがいいのに唐辛子入れたらもったいないし、フレーバーオイルにするにはサラッとしすぎてて向いてない……と俺は思ってる。」
「こだわってんなあ。大事に味わわないとな。」
和樹は笑った。
「いや、空気に触れたら香りも味もどんどん劣化するんで、美味いうちに使い切ったほうがいい。」
「そうそう。遠慮しないで。」
その見本を見せてやると言わんばかりに、佐江子は自分の皿に取り分けた玉ねぎにオイルを大量にかける。
「それはかけ過ぎだと思うけど。」
「うるさいわね。」
和樹はひとり、心の中でホッとした。オリーブオイルが急に減った理由は、「さっさと使い切ったほうがいい」からだ。そう思った涼矢が料理にも使ったのだろう。佐江子は勝手にそう解釈してくれているに違いない。
「ご両親はお変わりない?」
佐江子が話しかけてきた。
「はい。母も最近……でもないか、去年の夏からパートで働き始めて、ファミレスのホールやってます。」
「そう。元々そういうお仕事してらしたの?」
「いえ、全然。ずっと専業主婦でした。」
「ご結婚前も?」
「うーん、よく知らないんです。若いうちはモデルとかキャンペーンガールみたいなことはしてたみたいですけど、本業としてがっつりやってたわけでもなくて。飲食業も、いわゆる事務とか販売とか、そういう仕事らしい仕事はしたことないと思います。」
「じゃあ、随分思い切ったんでしょうね。」
「……だと思います。知り合いに紹介されたのがきっかけで。」
「和樹くんも立派に独り立ちしたから、安心して新しい環境にも飛び込めたのかな。」
「独り立ちなんかしてないですよ。相変わらず仕送り頼りだし。日々の暮らしって意味で言えば、料理でも掃除でも俺より涼矢のほうがよっぽどちゃんとやってると思います。」
「それを言われちゃうと、私が一番だめね。家のことは涼矢頼りで。」
明るく笑いながら佐江子は言い、和樹へのアドバイスとは程遠い勢いでワインを呷 った。
「そんなこと思ってないだろ。」
涼矢は横目で佐江子を見た。
「思ってるよ、こうやってね、遅く帰ってきても美味しいもの作ってくれるし。」
「ですよね。」和樹は思わず力強く同意した。「あ、いや、美味しいもの作ってくれるっていうか、もっと単純な……帰ってきたときに迎えてくれる人がいるのはいいなって思います。」
「和樹くんちは、ずっとお母さまが待っててくださったんだものね。」
「……ええ、はい。そんなの、実家にいるときは全然意識したことなかったけど、寒い日に外から帰ってきたら部屋が暖まってるとか、そういうのひとつとっても、一人暮らしって、ほんとに一人で、帰ってくると朝出かけたときのまんま何も変わってなくて……あれ、俺、何言ってんだろ。」
「分かるよ、私も少しだけど一人暮らししてたから。」
「え、そうなの?」
涼矢が意外そうに言う。
「そうよ、だって大学遠かったもの。お金なくて、古ーい狭ーいアパートに住んでてね、隙間風がひどくて、冬は部屋の中でもコート着てた。」
「深沢の家から仕送りしてもらわなかったんだ。」
「してくれないよ、女が大学進学することだって大反対されてたぐらいなんだから、家出同然。まあ、弁護士資格取ったらコロッと態度が変わったけどね。その頃にはお父さんいなくなってたし。」
「え、そんなに早く死んでないよね?」
「生きてはいた。愛人のところに行きっぱなしだっただけ。……あ、私の父ね、とんだ女道楽で、いばりんぼの頑固者で、ひどいじいさまだったのよ。」
佐江子は悪口を連ねて和樹に解説してくれたが、その話ならとうに涼矢から聞いていた。
「傑作なのは、この子って、そのじいさまに顔が。」
「その話はやめろ。つか、和樹、もう知ってるし、それ。」
涼矢が制止するが、佐江子はひるまない。
「性格はともかく、女遊びしてただけあって、いい男だったのよ。二枚目っていうより、雰囲気のある人でね。女に私がいないとダメなのねって思わせるのが上手なの。母性本能くすぐるっていうのかな。私にはない本能だから分かんないけど。」
「ないね。まったくない。」
「そういうときだけ口を挟むのやめなさいよ。」佐江子は涼矢の肩を叩いた。
「ひとんちのじいさんの話聞いたって、おもしろくないだろ。」
「じゃあ、何かおもしろい話題を提供してよ。」
「俺が?」涼矢は眉根を寄せて不快そうな顔をする。
「そうそう、よくそんな顔されたもんよ、お父さんに。女は美貌と愛嬌って人だったからね、私みたいな不愛想でガリ勉の女なんか、ほんっと理解できなかったみたい。」
「不愛想……だったんですか?」
「今でも、おもしろくないのに笑うのは苦手よ。無理にニコニコしなくていい仕事を選んで正解。」
そんなところは親子で似てる、と和樹は思う。佐江子にしても涼矢にしても、「ニコニコしなくていい仕事」だから選んだとは思わないが。
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