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第940話 カルテット (12)

「弁護士なんてね、むしろこうして難しそうな顔してるほうがウケがよかったりして。」  佐江子は大仰に眉間に皺を寄せ、考え込むように額に手を当てた。 「そんなことしてるから、眉間の縦皺が消えなくなってるんだ。」 「えっ、うそっ。」  涼矢の言葉に、慌てて眉間を伸ばす仕草をする。そんな佐江子を、和樹は初めて可愛いと思った。 「皺なんかないですよ。」 「いや、あるの。あるのは知ってる。年だから仕方ない。年相応の皺はいいんだけど、ここの皺はいやよね。性格悪く見えそうで。」  佐江子は眉間を指差しながら言う。年相応の皺、は確かにある。目尻に走る細かい皺。恵がやたらと気にして夜な夜なパックでケアしている「ほうれい線」もうっすら見て取れる。佐江子の場合は、痩せている上に化粧っ気がないので余計目立つのかもしれない。だが、それを見て不快には感じないし、こんな話題にならなければ気にも留めない、些細なことだ。恵は確かに整った容姿をしているし、ケアの甲斐あって肌ツヤもよく、実年齢よりも若く見えるけれど、だからといって二十代三十代に見えるわけではなく、その意味では和樹にとって佐江子も恵も同じ「中年女性」のジャンルにいて、正直、美醜で魅力を測る対象ではない。だからこそ、さっきの佐江子のような、ちょっとした仕草を可愛いと思ったりもするのだ。  そんなことをつらつらと考えていると、涼矢が言った。 「本当は性格がいいのに、ってこと?」 「涼矢は少し黙ってなさい。」  母親に叱られて笑いをこらえる涼矢もまた、可愛いと思う。 「これ、うま。」  和樹はガレットを頬張る。 「ん、美味しい。玉ねぎも美味しいよ。」 「どうも。」  そう素っ気なく答える涼矢の取り皿には、干しぶどうが二、三粒載っているだけだ。それでいて、空いたグラスに自分でワインを継ぎ足す。それでボトルはほぼ空になったが、底のほうにはまだ少しだけ残っている。 「まだちょっとある。」 「それは(おり)っていってね、美味しくないからそのままでいいの。試しに舐めてみる? 渋いよ。」 「いや、やめておきます。」  渋いと分かっててわざわざ舐めるわけがない、と思ったが、佐江子は舐めるタイプなのだろうとも思う。理屈でいくら分かっても、実体験を伴わないことには納得しない。彼女の力強さの源はきっとそういう性格から来ている。 「若いワインなら気にしなくていいんだけどね。」  それを聞いて和樹は実家を思い浮かべた。隆志も宏樹も晩酌でワインを飲むことは滅多にないが、何回かは見たことがある。そのときは最後の一滴まで飲んでいたと思う。あれはつまり、さほどの年代物でもないワインだったせいだろう。  佐江子と話す和樹をよそに、涼矢はグラスを傾けている。ガレットにも玉ねぎにも手を伸ばす気配はない。 「涼矢は食わねえの?」 「味見はしたし、こんな時間に食ったら太るから、やめておく。」 「まーたそんな嫌味言う。」  佐江子が茶々を入れた。 「……腹いっぱいだと寝つきが悪くなるんだよ。」 「それは分かるけど。あなた、私がいないときもちゃんと食べてる?」 「ああ。」  明らかに嘘と分かる言い方だった。佐江子にもそう聞こえたことだろう。だが、佐江子は何も言わなかった。  それからしばらくとりとめのない会話をして、ガレットも玉ねぎも佐江子と和樹のお腹の中に収まったところで、「さて、と。」と佐江子が言った。 「そろそろお開きね。これは私が片付けておくから。あなたたちは寝なさい。」 「いいよ、明日、早いんだろ。」 「そう? 作らせた上に、悪いね。」  佐江子はあっさりと引き下がり、洗面所に向かう。やがて歯磨きする音が聞こえてきた。  涼矢は食洗機に食器を入れる。グラスだけは手で洗うようだ。 「グラスは洗えないの?」  手持ち無沙汰の和樹は、涼矢の背後をうろうろした。 「普通のコップは洗っちゃってるけど、これはクリスタルガラスだから、ちょっと怖くて。」 「耐熱じゃないってこと?」 「ああ。へたすると白く濁る。クリスタルガラスって鉛が入ってるから。」 「ふうん。なんでも知ってるな?」 「アリスさんに教わった。バイトしたとき。」 「へえ。」  そうこうしているうちにグラスを洗い終える。洗面所から出てきた佐江子が、通りすがりにお休み、と言って寝室に消えていった。 「俺らも歯、磨こう。」 「ん。」  洗面所に行くと、ホテル名が印字されている歯ブラシと歯磨き粉のミニチューブのセットが置いてあった。和樹は既視感を覚える。 「佐江子さん、前にもこういうこと、してくれてたな。前のときはタオルまで。」 「出張のたびにホテルからもらってくるもんだから、そういうの使い切れないほどあるよ。でも、最近は持ち帰り用のタオルがないとこがほとんどだって言ってたな。シャンプーもミニボトル式じゃなくて、備え付けになってて。経費節減なんだろうね。」 「いや、そういう話じゃなくて、ありがたいね、って話。」 「大したもんじゃない。むしろケチくさいことして悪いなって感じ。」 「気持ちの問題だよ、気・持・ち・の。こういうことしてもらえるとさ、嬉しいだろ、少なくとも佐江子さんに嫌われてはいないんだなって。」 「だから、和樹のことは気に入ってるってば。おふくろも、親父も。」 「噛み合わねえなあ。」  和樹は苦笑いして、歯を磨き始めた。涼矢も同じことをして、しばし会話は中断する。

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