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第946話 午睡の夢 (1)
「佐江子さん、もう出勤したかな。」
和樹にそう言われて、涼矢は自分のスマホで時刻を確かめようと手を伸ばした。手を泳がせてスマホを探すものの、なかなか指先に触れない。ほんの少し体を起こせばすぐに見えるのは分かっているが、動くのが億劫だ。
「……涼矢、具合悪い?」
「え?」
「顔色悪いけど。」
「ちょっとだけな。二日酔い、かも。」
「吐きそう?」
「そこまでじゃない。動くとちょっと響くだけ。」
「水持ってこようか。」
「いや、そんな。」断りかけて、思い直す。「やっぱ、お願い。」
「ポカリとかある?」
「普通の水がいい。サーバーの。」
「おっけ、分かった。」
和樹は階下のキッチンへと急ぎつつ、昨夜の涼矢の様子を思い浮かべた。赤ワインは結局何杯飲んだのだろう。自分の倍以上なのは間違いない。佐江子と同じようなピッチで飲んでいたように思うが、涼矢は更にその前にビールも飲んでいるのだ。
キッチンに佐江子の姿はなく、ホッとする。グラスに水を注いだ。それをすぐさま涼矢の元に持って行ってやろうとして立ち止まり、スマホで検索した。「二日酔い 治し方」といったキーワードだ。
ヨーグルトがいい。シンプルに胃腸薬。炭酸飲料。シジミの味噌汁。カレーがいい、などと書いてある記事も見つけたが、さっきの様子ではさすがにそれは無理そうだ。
「失礼しますよっと。」
誰もいないのにそう呟いて、冷蔵庫を開ける。お誂え向きにヨーグルトドリンクを見つけた。探せば胃薬くらいはありそうだが、部屋をパッと見渡した限りでは薬箱は見当たらなかった。このリビングダイニングは、一見シックな木目の壁に見えるところの大半が収納スペースになっているようで、よく見ると取っ手にする窪みがついている。掃除だけはきっちりやるという佐江子は、ほとんどのものをこれらの扉付のスペースに収納しているらしい。どこを開ければ何があるのか皆目見当が付かないし、住人不在の隙に家捜しをする気はない。
和樹はヨーグルトドリンクと水を持って涼矢の部屋に戻った。
「ほい、水。」
「んー。」
怠そうにゆっくりと涼矢が起き上がる。
「あと、これ。二日酔いにヨーグルトいいらしいよ。冷蔵庫に入ってたやつ、勝手に持ってきちゃったけど、大丈夫だったかな。」
「んー。」涼矢は水を飲みながら、そんな気の抜けた返事をした。いや、返事にもなっていない。「そっちももらう。」
あっと言う間に水を飲み干した涼矢は、立て続けにヨーグルトドリンクも飲んだ。
「のど渇いてたんだな。」
「ん。脱水症状起こしかけてたんじゃないかな。」
「だいじょぶかよ。」
「んー。」
またそんな返事をして、涼矢は倒れ込むように再びベッドに横たわった。手には潰れた紙パックがある。それを和樹に向けてつきだす。
「捨ててこいって?」
「悪い。動けねえ。」
「ったくもう。」
「そこのゴミ箱でいいよ。」
「こういうのは、切り開いてちゃんと洗ってリサイクルするんだ。」
「へえ。」
「聞く気ねえな。」
和樹は空の紙パックを手に、部屋を出ようとする。その背中に涼矢が畳みかけた。
「あと、水、もう一杯。」
「はいはい。」
ハイは一回、はっきりとぉ。奏多の口調を真似する涼矢を思い出し、つい吹き出しそうになる。もちろん、今の涼矢がそれどころではないのは分かっているが。
そんな状態が午前中いっぱいは続いて、結局涼矢は一度トイレに立ったきりで、あとはずっとベッドで寝て過ごした。和樹はそのベッドを背もたれにして床に座り、黙々と漫画を読む。例のバスケ漫画だ。あの時以来、手に取ることもなく、ストーリーがあやふやになっていたので一巻から読み直すことにした。このまま読み進めていれば二年越しにようやくあの時の「最新刊」を読むことになるはずだが、実際にはもうそれは最新刊ではない。
涼矢は時々寝息を立てているからウトウトしているらしい。かと思うとゲップ未満の、咳のようなしゃっくりのような息を吐き、そのたびに「ああ……。」と、この世の終わりのような嘆き声を上げたりもする。その頻度がだんだん低くなって、やがてシンと静まりかえった。
「もう、昼か。」
和樹がそう言ったのは、正午どころか一時を過ぎた頃だ。
その声で目が覚めたのか、涼矢が「なんか食ってくれば?」と言った。「悪いけど料理は無理そう。キッチンのものは何でも食っていいし、面倒なら佐江子さん秘蔵のインスタントラーメンがあると思うから、適当に。」
このぐらいの長文を落ち着いた声でしゃべれる程度には回復したらしい。
「あのヨーグルトも佐江子さん秘蔵のじゃなかったの。」
「おふくろが買ってきたんだと思うけど、別にいいんだ。しょっちゅう賞味期限切らしてるし。」
「涼矢は腹減ってないの。」
「あんまり。」
「インスタントのシジミ汁はねえの?」
「ないなあ。」
「……じゃ、コンビニでも行ってくるかな。メシ買うついでに、シジミ汁と……あと何か欲しいもんある?」
和樹は読みかけの漫画を脇に置き、立ち上がる。
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