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第169話 ただいま。(9)

 2人はゆっくりと歩き出した。和樹は無意識に、欅並木を通っていく正門側ではなく、あまり人のいない裏門のほうへと向かう。涼矢に目をやると、疲れ果てた横顔をしていた。「本当に消耗してるなぁ。10歳ぐらい老けてるぞ。」 「今日一日、俺が不機嫌そうに見えても、スルーしてくれ。疲れてるだけだから。」 「分かった。……つか、悪かった。」  涼矢も和樹を見る。「おまえ、言うつもりだった? あのタイミングで?」 「うん。もう、いいや、言っちゃえって。今でも、思ってる。おまえがかばってくれたのはありがたいけど、やっぱり本当のこと、言えば良かったかなって。」 「言うにしても、あんな、勢いだけで言ったらダメだよ。せめて相手選べよ。あの子はダメだ。」 「舞子ちゃん? ダメ?」 「うん。一番面倒なことになるタイプだと思う。」涼矢は苦笑いをする。「俺と付き合ってると、本当のことを言っていい相手かどうか見極めたり、嘘をついたり……嫌なことを、いろいろしなくちゃならないね。」  和樹は何か言わなければと思ったが、何も言えなかった。 「和樹には、あんまり、そういう風になってもらいたくはないんだけど……。」  涼矢は語尾を濁し気味に言う。まだ続きの言葉があるようだ。和樹はその言葉を恐れた。涼矢のことだ、自分が身を引けば和樹は普通の恋愛ができるだの、嘘も我慢も俺がすればいい、和樹は気にしなくていいだの……そんなことを、言い出すのだろう。何もかも、勝手に好きになった自分の責任だからと背負いこんで。そうしたら、俺はまた涼矢にそんなことはないと言い聞かせなくちゃならない。今まで何度も、そんなやりとりを繰り返している気はするけれど。どう言えば、涼矢を落ち込ませることなく、うまくそれを伝えられるのか。手を替え品を替え言い聞かせてきたつもりだが、この件に関するとなると、涼矢はいつも振り出しに戻ってしまう。  いくら俺はおまえが好きだよ、ずっと一緒にいるよと伝えても、涼矢がそれを嬉しそうに笑顔で受け止めるのはその場限りで、心の中ではいつ俺が心変わりしても良いように覚悟している気がしてならない。  そんな風に、俺からの見返りを求めない一方的な愛情が、嬉しくないわけではないのだけれど、でも、だったら俺からの愛情は、いったいどこにぶつけたらいいのかと思ってしまう。俺がいくら涼矢に愛を伝えても、こいつはそれを一時的な預かり物でもあるかのように、箱にしまったまま眺めているだけなんだ。それが俺には淋しくて、物足りなくて。もっと乱暴にラッピングを破いて、わあ嬉しいって絶叫して、ボロボロになるまで使い倒してほしいのに。あるいは大口を開けてバクバクと食らって、涼矢の血肉にしてほしいのに。――俺が涼矢に向けている愛情は、暴力的過ぎるんだろうか。それを受け止めてほしいと望むのは酷なんだろうか。  涼矢の口が開くのがスローモーションのように見えた。今から聞かされるであろう、涼矢の自虐的な言葉を、どう否定してやればいいんだろう。俺の気持ちをもっとちゃんと受け止めてほしいって、どう伝えればいいんだろう。  和樹の逡巡の前で、涼矢が言った。 「それでも、俺は……和樹に、これからも俺と付き合ってほしいって、思ってる。」  和樹は耳を疑い、その場に立ちすくんだ。あと数歩で校門だった。正門ほどではないものの、人の出入りはある。こんなところで立ち止まっていては目立つ。涼矢に返す言葉もまだ思いつかない。とりあえず足を前に出す。知らず小走りの速度になった。校門を出ても、そのまま歩き続けて、やがて細い脇道へと入った。涼矢がちゃんと着いてきている気配だけ確かめて、その細道も進んでいく。人影がほぼなくなったところで、再び足を止めた。 「和樹?」すぐ後ろにいた涼矢が、背後から和樹の肩に手を置いた。和樹は振り返る。眉間に皺が寄っている。だが、不機嫌というわけでもなさそうだ。涼矢を怪訝そうに見る。 「どうしたの。俺、また変なこと言った?」 「言ってない……よ。うん、変なことは、言ってない。」和樹は首を振る。涼矢と向き合う。何から言えば良いのだろう。涼矢の言葉は、想定外だった。もしかして、涼矢から「付き合っていきたい」という前向きな意思表示をされたのは、初めてのことではないか。混乱しながら、和樹は言った。「俺たちが一緒に生きて行くってのは、大変なんだな?」  一見脈絡なく、和樹がそんなことを言い出しても、涼矢はたじろがなかった。冷静に「うん、そうだね。普通のカップルよりは、大変だと思う。」と答えた。 「今まで、おまえは……俺と付き合う前も、付き合うようになってからも、我慢したり、ためらったり、つきたくもない嘘をついたり、してきたんだよな?」 「そうだね。」 「俺には、そういう思いをさせたくないって、思ってる?」  涼矢は言葉に詰まったものの、落ち着いていた。今の和樹は分かる。こういう時の涼矢は、怒っているのでも悲しんでいるのでもなく、「ちょうどいい言葉を探している」のだ。だから、ただ、待てば良かった。やがて涼矢は口を開く。「少し前までは、思ってた。今は思ってない。」 「今は、俺にどうしてほしいと思ってる?」 「……正直に、言ってもいい?」 「正直に言ってくれなきゃ、質問してる意味がない。」  涼矢は小さくうなずいてから、言った。「本気で2人で生きて行こうと思ったら、これから、いろんなことを犠牲にすると思う。たぶん、今、和樹が想像しているより、ずっと、たくさんのことを。」涼矢はそこで一拍置いた。それから、和樹を正面から見据えて、一言ずつ区切りながら言った。「それでも、そういう時には、一緒に、傷ついてほしい。」 「分かった。」和樹はあっさりとそう答えた。涼矢が拍子抜けしてしまいそうなほど、あっさりと。  これからも付き合って行きたいという、さっきの涼矢の言葉はあまりにも予想外だった。和樹は耳を疑い、戸惑った。だが、「一緒に傷ついてほしい」とまで言う涼矢を見て、今度こそ確信を得た。 ――涼矢の中で、何かが変化したのだ。

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