171 / 1020
第171話 驟雨(1)
しばらくの後、2人は電車に揺られていた。車内は空いていて、横並びに座れた。
「……このまま、上野まで行こうか。」涼矢が言った。
「上野?」
「パンダ見たいって。」
「ああ、あれ。いいの?」
「小中学生は、夏休み最終日だろ? 少しは空いてるんじゃない?」
「宿題の追い込みだよな。徹夜して絵日記書く日だ。」
「おまえはそうだったんだろうな。」涼矢はクスッと笑う。
「はいはい、きみはさぞかしばっちり計画的にやっていたんでしょうね。」
「家庭教師に褒められたいっていう、下心があったからね。」和樹はハッとして涼矢を見る。涼矢もその視線に気づいて、微笑んだ。「良い思い出だって、あるんだよ。最後はあんな終わり方だったけど。」
「そっか。」できるだけなんでもないことのように、和樹は振る舞った。具体的にどんな思い出だったのか、涼矢が語り出すつもりなら、聞いてやろうと思った。「先生との思い出」を聞いてやれるのは、きっと俺しかいないのだから。
でも、涼矢はそれ以上その話を広げることはせず、「本物のパンダ、見たことある?」と聞いてきた。
「ない。」
「俺も。コアラはあるけど。」
「オーストラリアで?」和樹は冗談のつもりでそう言ったのだが、涼矢は当然のことのように「うん。」と答えた。
「ホームステイしてる彼女って、コアラか?」
「そうそう。今頃ユーカリ食ってるよ。」
「ははっ。」
「あれも夏休みだったな。いつだっけな。4年生ぐらいかな。時差はほとんどないけど、季節は逆だから、寒かったの覚えてる。」
「いいなあ、海外。俺もどっか行きたいなぁ。」
「そのうち一緒に行きましょう。」
「卒業旅行とか?」
「うん。」
「新婚旅行とか?」
「行けるといいね。」
「……楽しみだな。」
涼矢が和樹のほうを見て、にっこり笑う。「卒業旅行行って、新婚旅行行って、その次は?」
「え?」和樹は目をくるりと上に向けて、考える。「その次……って言ったら、別にナントカ旅行っていうんじゃなくて、普通の旅行じゃない?」
「俺は、その、普通の、なんでもない旅行が楽しみ。」
「えっ?」
「たぶんその頃って2人とも働いてて、そこそこ忙しくて、休みもあんまり合わなかったりして。でも、たまたま連休の都合が合った時に、じゃあ行こっかーって、急に思い立って、行くんだ。海外じゃなくてもいい、熱海でも草津でも。」
「温泉かよ。」
「部屋に露天風呂がついてるとこがいいな。」
「……ああ。それは、楽しそう。」
「和樹の浴衣姿、超見たい。」
「超乱したい、の間違いだろ。」
「見たいし、乱したい。」
「おまえらしい。」
「この会話で俺らしいって、なんだよ。」涼矢は笑った。
そんな話をしているうちに上野に着いた。動物園のある方面の改札口から外へ出ると、雲行きが怪しかった。その分、前回よりは幾分暑さが和らいでいる。
「雨降りそう。」和樹が空を見上げた。
「降るかな。まいったな。」
「ビニ傘ぐらい、そこらで売ってるだろ。」
「洗濯物のこと。外に干してきちゃった。天気予報、見てくれば良かった。」
「さっきまで晴れてたのにな。でも、余計、空いてるかも、だ。」
そうこう言っているうちに、雨粒がポツリポツリと肌に当たるのを感じた。
「やべ、ザーッと来るかも。傘買おう。」和樹は近くの売店へと走る。
2人はそれぞれ1本ずつビニール傘を買った。雨脚は強くなってきたが、それでもどちらも予定変更を言い出すことはなく、動物園に入った。
降り出したばかりということもあって、最初は人出が極端に少ない感じはしなかったが、20分、30分と経過するにつれて、明らかに歩いている人は少なくなっていった。特に幼児連れの親子などは早々に退散していくようだ。
「上野に行こうなんて言わないで、まっすぐ帰っていれば……。」涼矢が独り言のように言った。
「え、なんで? 楽しくない? 洗濯物は残念だけど。」
「楽しい?」
「うん。人少なくて見やすいし。結構屋内のところも多いから。」
確かに夜行性の動物や両生類、鳥類などは元から屋内施設だ。ライオンやトラも並ばずに見られた。カバやゾウに至っては雨が好きらしくて活発に動いている。
和樹はそのカバをもう10分ほど眺めている。
「カバ、好きなの?」
「うん。」
「めちゃくちゃ強いらしいね。」
「ああ、最強説もあるぐらいだからな。」
「一見のんびりしてそうなのに。」
「クマとかゾウとかもな。癒し系キャラっぽいけど、ライオンより強い。」
カバから視線を外さずそんなことを語る和樹を見て、涼矢は安心した。涼矢が言い出したから気を使って「楽しい」と言っているのではなく、本当に楽しんでいるようだ。
逆に、猿や小動物は建物の中に入ってしまうものが多く、それらの動物の前は素通りすることになったけれど、それについても、和樹は特に不満は言わない。雨脚が弱くなってきて、和樹は「空いているうちにパンダ見よう。」と言った。どうやら小動物のことよりそれが気がかりだったらしい。
念願のパンダは、少しだけ行列にはなっていたが、スムーズに見ることができた。
「パンダだ。」と和樹が言う。スマホで何枚も写真を撮る。
「パンダだねえ。」
「可愛いなあ。」
「可愛いねえ。」
「あ、動いた。」
「動いたねえ。」
そんな涼矢のおざなりの対応も気にならないほど、パンダに熱中する和樹だった。
ともだちにシェアしよう!