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第172話 驟雨(2)
パンダを見終わると、タイミングがいいのか悪いのか、雨は止んでいた。
「満足した?」と涼矢が言うと、
「満足した。」と和樹は答えた。
「晴れてきたけど、どうする? もう一回、回る? さっき引っ込んじゃってて見られなかった動物とか。」
「え、いいの?」和樹は、心底嬉しそうだ。
「いいよ、もちろん。」涼矢は笑った。
「なんで笑うんだよ。」
「……パンダより和樹のほうが可愛い。」
「絶対馬鹿にしてるな。……ところで。」
「ん?」
「猿山はどっちだっけ。」
「こっちだよ。」涼矢はさっき前を通ってきたはずの猿山に向かって歩き出す。その後を着いてくる和樹を振り向きざまに、言い放った。「やっぱ方向音痴。」
アパートに戻った頃にはもう夕方だった。涼矢はため息をつきながら、湿った洗濯物を取り込み、もう一度洗濯機に戻す。「ま、シーツとか大物がなかっただけ、マシかな。」と呟いた。
「どんまーい。」
「他人事みたいに言うなよな。少しは手伝えよ。」
「じゃあ、次に取り込んでしまうのは俺がやるよ。おまえに任せるとパンツ盗られちゃう。」
「盗ってねえ、取り替えただけだ。」
「より気色悪いわ。」
「それもそうだな。」
「自分で言うな。」
早々にベッドでゴロゴロしている和樹を尻目に、涼矢は休む間もなく、コーヒーの準備をしている。そして、いつの間にかロックアイスも買っていたようで、ドリップしたコーヒーはアイスコーヒーにして、和樹にも渡した。和樹はベッドに腰掛ける姿勢になり、涼矢もその隣に座った。
「お、アイスコーヒーだ。」
「うん。」
「サンキュ。」
「うん。」温度差で、あっという間にマグカップが結露して、雫が滴るほどだ。涼矢はティッシュでそれを拭った。ついでに和樹のカップの表面も。「何にも聞かないんだね。」と涼矢が言った。
「ん?」
「なんで急にあんなこと言い出したのか、って。」
「ああ、うん。」
「気にならない?」
「なるよ。でも、変に聞き出して、おまえの気が変わったりしたら困る。」
和樹の返事を聞いて、涼矢は笑う。「そんなに大したことじゃないけど。」
「大したことだよ。俺、超びっくりした。」
「そうは見えないけどなあ。」
「平気そうなふりしてる。めちゃくちゃ努力して。」
「そうなんだ。」
「で?」
「ん?」
「だから、そこまで言って、言わないわけ?」
「……ああ。」涼矢はコーヒーを飲んで、喉を湿らせた。「大学で、あの、サークルの女の子……」
「舞子ちゃん。」
「そう、その、舞子ちゃんに、いろいろつっこまれて。」
「うん。」
「オーストラリアの彼女が。」
「え? ああ、おまえの、嘘の。」
「そう。俺がとっさに作り出した架空の彼女がさ。」
「うん。」
「なんかすげえ生々しく想像できて。そうだ、和樹の部屋に戻ったら、彼女に連絡しなくちゃって思ったぐらい。」
「おまえに脳内彼女ができるとは。」
「そう、その脳内がさ、言うわけ。あたしがいない隙に合コンとかありえないとか、あたしは海外で1人で頑張ってるのにひどいとか。すごく、うるさく。あたしのこと好きじゃないのか、もっと構え、あたしだけ見てろ、って。」
「舞子ちゃんも言ってたな、"束縛する彼女"って。」
「束縛するし、わがままだし、欲張りだし、ひどいもんだ。ぶわっと一気に、そういうのが、頭の中に溢れてきてさ。……でも、それって、俺だろ?」
「おまえの脳内だもんな。」
「結局、俺の本心はそれなんだなって。そう思ったら、認めざるを得なくなったっつうか。」
「認めたくなかった?」
「そりゃそうだよ。」
「なんで?」
涼矢は意外そうに和樹を見る。何故、そんな分かりきったことを聞くのかと言いたげに。
「だって……そんなの、カッコ悪いから。」涼矢が言った。
「え? 本心に、カッコいいとか悪いとか、関係なくない? つか、カッコ悪いから本心と違うこと言うのって、見栄張ってるだけだろ? 見栄張るなんて、本音言うより、もっとカッコ悪くない?」
「……和樹の癖に、痛いところをつくよな。」
「ちょま、和樹の癖にって何だよ。」
「そうだよ。俺はカッコ悪い見栄っ張りなの。とにかく和樹に嫌われたくないの。本当の自分なんかより、おまえに気に入られる俺でいることのほうが大事なの。……大事、だったわけ。今までは。でも、今日、そんなのは嘘で、ホントの俺は、もっと、欲張りで、汚くて、自己中心的だってバラした。怖かったけどさ、でも、溢れちゃってたから。脳内が。」
和樹はアイスコーヒーを飲み干して、空いたカップをテーブルに置いた。「おまえって、ホント、めんどくせえな。」
「分かってるって。」涼矢もカップを置いて、苛立たしげに前髪をかきあげた。
「要は、俺の前では、カッコよくて出来の良い涼矢くんでいたかったってわけだ。」
「ああ、そうだよ。」
「で、それ言って俺が幻滅するのが怖かったって?」
「そうだよ。」
和樹は涼矢の顎をくいっと引き上げる。「かーわい。」
涼矢はその手を叩くように払った。「茶化すな。……俺、これでも今、死にそうなんだから。」
「知ってる。」和樹はまた涼矢の顔の輪郭に沿って手を這わせる。「だって、今の涼矢の顔、初めて告ってきた時と、同じだもん。あの時も、死にそうで。」
「やめろよ。」涼矢もまた、和樹の手を振り払う。
和樹は涼矢の頭ごと抱えるようにして、自分のほうへと引き寄せた。それについては、涼矢は嫌がらずにされるがままになる。
それから和樹は、涼矢の目尻から頬、頬から顎へと、優しくキスを繰り返した。最後に唇に口づけて、涼矢と目を合わせた。「好きだよ、涼矢。どんなおまえでも、愛してる。」
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