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第951話 午睡の夢 (6)
「海 が。大学の友達な。そいつ、おかゆもうどんも好きじゃなくて、具合が悪くなるとすいとん作ってもらってたんだって」
「原料を考えるとうどんもすいとんも大差ない気がするけど」
「そこはいいんだよ。とにかく、それをな、お父さんが作ってたんだって。あ、実の父親は小さい頃亡くなってて、育てのお父さんらしいんだけど、まぁそれもいいんだ。とにかく海は父親の作るすいとんなら食べられた。だから父親も作ってあげてた。で、俺が退院して最初に食ったのが兄貴が買ってきてくれたコンビニ弁当だったんだよな。ありがたいよ、そりゃ。ちゃんと焼き魚だかなんだか、あっさり系のを選んでくれたし。でも、やっぱ正直重くて。おまえだったら、って思った。涼矢だったらうどんでもおかゆでも、それこそすいとんでも俺がそれが食いたいって言えば作ってくれるんだろうなって。だけど、俺はおまえにそんな風にしてやれない」
「俺はたまたま料理が好きなだけだ。和樹の買ってきてくれたおかゆだって、俺のために梅干しの選んでくれたわけだろ。そういう気持ちだけで」
和樹は、涼矢が話すのを遮った。「海もそう言ってた。その人がやれることを精一杯やってくれたら充分嬉しいって。俺もそう思う」
「……」
それなら何が不満なのか。涼矢はそう言いたいのだろう。だが、それを口にはしない。涼矢は待つ。和樹が「ちょうどいい言葉」を見つけるのを。いつもとは反対の立場だ、と互いに思う。
やがて和樹が口を開いた。「俺がそう思うってのは、してもらう側の立場の話。してもらって嬉しかったことなら、おまえにもしてやりたいと思う。してもらう一方じゃ嫌だから。けど、実際やろうと思ってもできない。こう、してやりたいことのレベルがここにあったとして」和樹は視線より高い位置に手を掲げる。「でも、自分の技術とか知識とかが全然追いついてない」その手をぐんと下げてみせた。
「そんなことない。和樹がいてくれるだけで」
「おまえがそう言ってくれることも知ってる」和樹は苦笑いする。「だからって、いてやってるだけでいいとは思えないよ、こっちは。おまえだって立場変えたらそう思うんじゃないの」
「俺は……」
涼矢は言い淀む。和樹にとっての自分が「いるだけでいい」存在だなんて思ったことは一度もない。思えるわけがない。
「ただいるだけで周りの人を幸せにできるのは、生まれたての赤ん坊ぐらいだ」
和樹の言葉にハッとする。その言葉が事実なら――少なくとも和樹がそう思っているのなら――「いてくれればそれでいい」という言葉は、和樹にとっては愛の言葉どころか、赤ん坊扱いされているのと同じ、ということになる。
その「説」については事実かどうか判断が難しい。何しろ「生まれたての赤ん坊」に接したことは二度しかない。従妹が出産したときと、夏鈴を見舞ったときだ。従妹の子は遠巻きに見ただけだったが、仲の悪い従妹と言えど出産の壮絶さを目の当たりにすれば相応の衝撃はあったし、母なる者への畏怖の念も湧いた。喫茶店のマスターと夏鈴の子は、実際にこの手に抱かせてもらい、その頼りない小さな体から神々しいまでのエネルギーを感じて驚いた。しかも自分と同じ名を持つ子だ、特別な存在には違いなかった。だが、その「特別な感情」を「幸せ」と解釈すべきなのだろうか。
「和樹は、赤ん坊がいたら幸せなの?」
声に出した瞬間に、まずい、と思った。そういう意味ではないのだ。これから和樹が弁解するであろう、そういうことが言いたかったんじゃない。
「幸せっつうか……」
案の定、和樹は怪訝な顔をする。二人の血を引くこどもを持てない俺たちは幸せになれないとか、そんな話のつもりではない。そう補足しなければ、と焦る。焦るせいで余計に言葉が出ない。
「単純に、可愛くて、見てて和むだろ?」続きの言葉を聞いて涼矢は安堵する。先回りして考えすぎてしまっていたようだ。
「可愛いとは思うよ。子猫でも子パンダでも子イグアナでも、小さくて無邪気なものは可愛い。でも、それ見て幸せを噛みしめるわけでは……」
正直な気持ちではあったが、自分がいかに冷たい人間であるかを告白しているようで気が沈み、語尾は弱々しく消えていく。
「子猫でも子パンダでもいいんだ。たぶん、子イグアナでも。まあ、大概の生き物のこどもってのは、寝てても食ってても見てるだけで癒されるだろ。自分が落ち込んでるときでも、そういうの見たら微笑ましくてつい笑っちゃう、みたいな。どんな励ましより元気出たりする」
「俺はおまえが笑ってるの見たほうが元気出るけど」
「混ぜ返すなよ、冗談で言ってない」
「冗談のつもりで言ってない。和樹の言うことは分かるけど、そういうのは結局思い入れだろ? 道端で満開の桜でも見たら俺だって和むよ。その桜を手入れしている人なら尚更感動するだろうし、桜にいい思い出がある人はどんなに疲れてても元気が出るかもしれない。でも、俺はただ、その場限りできれいだなって思うだけで、幸せだなあとも、元気が出るとも思わない」
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