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第175話 Whisper(1)

「とりあえず手巻き寿司は完璧にマスターしたけどね。」涼矢は、和樹の家でごちそうになるまで、一度も手巻き寿司の経験がなかった。初めて挑戦した時は海苔も何もボロボロで悲惨な有様で、料理は得意という自負のある身としては、それは屈辱的なことだったようだ。 「毎回手巻き寿司かよ。おふくろ、手抜きしてるな。」 「俺がリクエストしてるんだよ。この次はたこ焼きにしてくださいって言ってみる。」 「なんだよ。」和樹がぷっとふくれっ面をした。 「何、その顔?」 「すっかり甘えちゃってさ。」 「それって、どっちに嫉妬してるの。」涼矢は笑う。「ママとお兄ちゃん取られた気がする?」 「ちげえよ、おまえを取られたっての。甘えたいなら、俺に甘えろって。チョコでもなんでも食わせるよ。」 「あ。」 「今度はなんだよ。」 「たこ焼きにさ、チョコ入れたら美味しそうじゃない? そうだ、ホットケーキミックスの生地使えばもっとスイーツっぽくなるかな……。」後半は独り言のようだ。 「おまえさ、別に俺んちのたこ焼き食わなくても、よっぽどクオリティ高いの作れそう。」 「俺は都倉家にメシ食いに行くってより、家族団欒を味わいに行ってるんだから、いいんだよ。和樹のお母さん、いかにもお母さんって感じで優しいし。」 「だったら俺は佐江子さんになつくぞ。」 「なつく? あの人に? 母性ゼロだぞ?」 「佐江子さんだって立派なお母さんだと思うけど。つか、俺らにとってはあれ以上理想の母親、いねえだろうが。」佐江子は2人の関係を理解してくれている、唯一の"親"だ。 「一応言っておくけどさ、別に俺、自分の親、嫌いじゃないよ……ていうか、かなり好きだよ? ただね、そういう、家庭的な意味でいうと、ちょっとね、違うでしょ、あの人。」 「……ま、そこは否定しないけど。」 「居心地いいよ。和樹ん家。もちろん、緊張も遠慮もするし、あと、まあ、後ろめたさもあるしさ。……でも、和樹があの家庭で育ったことに、すごく、安心する。お母さんもお兄さんも良い人で。あ、お父さんは、挨拶ぐらいしかしたことないけど。」 「親父も至って普通のおじさんだよ。つか、親父の話題、今初めて出たな? よっぽど印象薄いんだな?」 「そんな言い方。」涼矢は笑ってしまう。「ま、父親って、そんなもんだよね。かわいそうに。」 「おまえのお父さんは印象薄くないぞ。」田崎氏には車での送迎付きで高級フレンチをごちそうになった。検事であり、現在、札幌に単身赴任中の彼は、一人息子である涼矢を溺愛してやまない。そんな田崎氏の趣味は、美食とジオラマ。和樹の知っている涼矢の父親の情報はだいたいこのようなものだ。 「だから、うちの親は……何かと煮詰めたような人達だからさ。」  和樹はその表現に、つい吹き出した。確かに、涼矢の両親は、「普通」とは言い難いが、「非常識」でもなければ「天然」と揶揄されるタイプでもなく、「破天荒」と言われるようなことをしでかすわけでもない。むしろ社会規範にのっとった正義の人であり、知性と品格を兼ね備えた常識人だ。だが、「煮詰めたような」濃い個性がある。 「佐江子さんは、俺のこと、聞いて来たりしないの?」 「ほとんどないね。たまに思い出したように、彼は元気にしてる?とか言うけど。」 「今回、なんて言って東京来たんだよ?」 「え? 普通に、和樹のとこ行ってくるね、って。」 「それでOKなの?」 「うん。2週間ぐらい留守にするって言ったら、そんなにいないなら、自分もホテルにでも泊まろうかなとは言ってたけど。食事とか洗濯とか面倒だからって。」 「それだけ? 心配しないんだ。」 「何を心配するんだよ? 俺らのこと知って、真っ先にコンドームはちゃんと使えって言った人だよ?」 「……別にないか。」 「ないだろ。俺は心配してること、あるけどな。」 「何?」 「壁の薄さ。」  和樹はむせそうになった。「な、なんの話っ。」 「ここの壁。絶対聞こえてるよな、隣の人。」 「……そ、そうかな?」 「俺、昨日、ゴミ捨て行った時にさ、会釈された。たぶん隣の人。」和樹のアパートは、住人専用のごみ集積場所が敷地内にある。 「なんで、隣の人って分かる?」 「会釈の時、すげえドキマギされた。つか、怯えられてた感じかな。和樹、隣の人と顔合わせたことある?」 「ないよ。引っ越しの挨拶もしてないし。けど、この人かなぁって思ってる人はいる。25、6歳ぐらいの人。たまに近所で会うんだ。下の自販機のとことかでも。夜見かけたときはスーツ着てたから、会社員だと思うんだけど。」 「ちょっと気弱そうな。」 「そう、小柄で、全体的に色素薄い人。」 「それ。」 「その人が、ドキマギ、会釈?」 「うん。」 「……ああ、あの人なぁ……文句言えなさそうだよなあ。」 「おまえの顔を知ってるんだとしたら、見慣れない俺を見て、さてはこいつが相手か、って思われたのかなと。」 「それで怯えた?」 「うん。」 「でも、怒るんじゃねえの、そういう場合。うるさくしやがって!って。」 「普通だったらね。でも、その声が明らかに男2人だったらさ、やっぱ、普通の人はビビるんじゃねえの。特に、あの人、気弱そうだし。」 「大家から何も言われてないけど。」 「大家に言うこともできないのかもよ、怖くて。あるいは。」 「あるいは?」 「俺らのそれを、楽しみに聞いている。」 「げ、キモッ。」 「いやいやいや、そうだとしても、俺らがそれ言える立場じゃないだろ。」 「あそっか。」  再び、2人の間に沈黙が横たわった。

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