175 / 1020
第175話 Whisper(1)
「とりあえず手巻き寿司は完璧にマスターしたけどね。」涼矢は、和樹の家でごちそうになるまで、一度も手巻き寿司の経験がなかった。初めて挑戦した時は海苔も何もボロボロで悲惨な有様で、料理は得意という自負のある身としては、それは屈辱的なことだったようだ。
「毎回手巻き寿司かよ。おふくろ、手抜きしてるな。」
「俺がリクエストしてるんだよ。この次はたこ焼きにしてくださいって言ってみる。」
「なんだよ。」和樹がぷっとふくれっ面をした。
「何、その顔?」
「すっかり甘えちゃってさ。」
「それって、どっちに嫉妬してるの。」涼矢は笑う。「ママとお兄ちゃん取られた気がする?」
「ちげえよ、おまえを取られたっての。甘えたいなら、俺に甘えろって。チョコでもなんでも食わせるよ。」
「あ。」
「今度はなんだよ。」
「たこ焼きにさ、チョコ入れたら美味しそうじゃない? そうだ、ホットケーキミックスの生地使えばもっとスイーツっぽくなるかな……。」後半は独り言のようだ。
「おまえさ、別に俺んちのたこ焼き食わなくても、よっぽどクオリティ高いの作れそう。」
「俺は都倉家にメシ食いに行くってより、家族団欒を味わいに行ってるんだから、いいんだよ。和樹のお母さん、いかにもお母さんって感じで優しいし。」
「だったら俺は佐江子さんになつくぞ。」
「なつく? あの人に? 母性ゼロだぞ?」
「佐江子さんだって立派なお母さんだと思うけど。つか、俺らにとってはあれ以上理想の母親、いねえだろうが。」佐江子は2人の関係を理解してくれている、唯一の"親"だ。
「一応言っておくけどさ、別に俺、自分の親、嫌いじゃないよ……ていうか、かなり好きだよ? ただね、そういう、家庭的な意味でいうと、ちょっとね、違うでしょ、あの人。」
「……ま、そこは否定しないけど。」
「居心地いいよ。和樹ん家。もちろん、緊張も遠慮もするし、あと、まあ、後ろめたさもあるしさ。……でも、和樹があの家庭で育ったことに、すごく、安心する。お母さんもお兄さんも良い人で。あ、お父さんは、挨拶ぐらいしかしたことないけど。」
「親父も至って普通のおじさんだよ。つか、親父の話題、今初めて出たな? よっぽど印象薄いんだな?」
「そんな言い方。」涼矢は笑ってしまう。「ま、父親って、そんなもんだよね。かわいそうに。」
「おまえのお父さんは印象薄くないぞ。」田崎氏には車での送迎付きで高級フレンチをごちそうになった。検事であり、現在、札幌に単身赴任中の彼は、一人息子である涼矢を溺愛してやまない。そんな田崎氏の趣味は、美食とジオラマ。和樹の知っている涼矢の父親の情報はだいたいこのようなものだ。
「だから、うちの親は……何かと煮詰めたような人達だからさ。」
和樹はその表現に、つい吹き出した。確かに、涼矢の両親は、「普通」とは言い難いが、「非常識」でもなければ「天然」と揶揄されるタイプでもなく、「破天荒」と言われるようなことをしでかすわけでもない。むしろ社会規範にのっとった正義の人であり、知性と品格を兼ね備えた常識人だ。だが、「煮詰めたような」濃い個性がある。
「佐江子さんは、俺のこと、聞いて来たりしないの?」
「ほとんどないね。たまに思い出したように、彼は元気にしてる?とか言うけど。」
「今回、なんて言って東京来たんだよ?」
「え? 普通に、和樹のとこ行ってくるね、って。」
「それでOKなの?」
「うん。2週間ぐらい留守にするって言ったら、そんなにいないなら、自分もホテルにでも泊まろうかなとは言ってたけど。食事とか洗濯とか面倒だからって。」
「それだけ? 心配しないんだ。」
「何を心配するんだよ? 俺らのこと知って、真っ先にコンドームはちゃんと使えって言った人だよ?」
「……別にないか。」
「ないだろ。俺は心配してること、あるけどな。」
「何?」
「壁の薄さ。」
和樹はむせそうになった。「な、なんの話っ。」
「ここの壁。絶対聞こえてるよな、隣の人。」
「……そ、そうかな?」
「俺、昨日、ゴミ捨て行った時にさ、会釈された。たぶん隣の人。」和樹のアパートは、住人専用のごみ集積場所が敷地内にある。
「なんで、隣の人って分かる?」
「会釈の時、すげえドキマギされた。つか、怯えられてた感じかな。和樹、隣の人と顔合わせたことある?」
「ないよ。引っ越しの挨拶もしてないし。けど、この人かなぁって思ってる人はいる。25、6歳ぐらいの人。たまに近所で会うんだ。下の自販機のとことかでも。夜見かけたときはスーツ着てたから、会社員だと思うんだけど。」
「ちょっと気弱そうな。」
「そう、小柄で、全体的に色素薄い人。」
「それ。」
「その人が、ドキマギ、会釈?」
「うん。」
「……ああ、あの人なぁ……文句言えなさそうだよなあ。」
「おまえの顔を知ってるんだとしたら、見慣れない俺を見て、さてはこいつが相手か、って思われたのかなと。」
「それで怯えた?」
「うん。」
「でも、怒るんじゃねえの、そういう場合。うるさくしやがって!って。」
「普通だったらね。でも、その声が明らかに男2人だったらさ、やっぱ、普通の人はビビるんじゃねえの。特に、あの人、気弱そうだし。」
「大家から何も言われてないけど。」
「大家に言うこともできないのかもよ、怖くて。あるいは。」
「あるいは?」
「俺らのそれを、楽しみに聞いている。」
「げ、キモッ。」
「いやいやいや、そうだとしても、俺らがそれ言える立場じゃないだろ。」
「あそっか。」
再び、2人の間に沈黙が横たわった。
ともだちにシェアしよう!