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第177話 Whisper(3)
ひとしきりの深いキスを交わす。舌同士をからめあい、唾液が糸を引く。和樹は、その甘い口づけを堪能しながらも緊張していた。自分から煽った手前、何をされようと抵抗しない覚悟はしたものの、涼矢のことだ、何を言い出すか分からない。その緊張の内訳には、不安だけでなく期待も入り混じっていて、その両方の意味で鼓動が激しくなった。
キスの先に進みそうになったその時に、涼矢は和樹の耳元で囁いた。「お皿、今日は俺が洗うからさ。」
「こんな時に、なんなんだよ、それ。」和樹はそんな文句を言う自分の声が、思いのほか甘ったるいことに自分で驚く。
「だから、和樹はこっちをきれいにしてきて? 中まで。」涼矢は引き続き耳元で言った。その指先は和樹のお尻の窪みに当てられている。和樹は反射的に両腕をつっぱらせ、涼矢から体を引き離した。
「な、なん、何を……。」
「準備しないと、辛いのは、和樹だと思うけど。」
「何するつもりだよっ。」
「穏やかじゃないセックスだろ? 特製和樹メガ盛りつゆだくの。もちろん和樹のリクエスト通り、縛り上げて、口にタオル突っ込んで、バックで。ね?」
――ほら見ろ、やっぱり。サディストめ。
和樹は心の中でひとりごちると、涼矢を一睨みして、バスルームに向かった。
「なんなら、手伝うけど?」
「いい。」
和樹がベッドの上から消えると、涼矢は自分で言った通りに、後片付けを始めた。最後に和樹に押し付けた餃子2個、その前に和樹がたれに浸したままの1個、計3個の餃子が小皿に残っていた。涼矢は行儀悪くそれを手でつまんで、ひょいひょいと平らげた。もう冷めきって、端のほうの皮などは乾いて硬くなっていた。3個目を口に入れた時に、たれがこぼれて、手首から肘の内側のほうへと伝った。リスカの血みたいだなと思いながら舐めると、ラー油混じりの、油っぽくしょっぱい味がした。
そうやって空にした小皿も洗う。洗いながら、哲のことを思い出した。リスカだのアムカだのやる奴の気がしれない、そんなの痛いだけじゃないか。……そう言い切れる奴は幸せだと思う。そういった行為を自分でやったことはない。やろうと思ったこともない。けれど、痛みを感じて、流れる血を見て、ああ自分はまだ生きている、と確認して安堵してしまう気持ちは分かる。分かってしまう。
和樹には分からないだろう。でも、和樹はそんなのは馬鹿のやることだと否定もしない。そんなことをしたら痛いだろうに、と優しい同情を寄せる。そして、俺が「そうしてもおかしくなかった」のに、「そうしなかった」ことを「俺らしさ」だと言うのだ。そんな風に考えたこともなかった。自分の体を切り刻む馬鹿がいるように、自分は海に沈もうとする馬鹿だっただけだと思っていた。その愚かさを和樹は救い上げてくれる。
なんなんだろうな、あいつは。神様か。天使か。そして、俺はその、神様だか天使だかに、これから何をしようとしてるんだろうな。
外したプレートと小皿2枚に箸2膳。それだけの洗い物はあっという間に終わってしまった。まだ和樹は時間がかかるだろう。簡単にベッドメイキングをして、それでもまだ和樹は出てきそうにない。シャワーの音を聞きながら、こっちもせめて歯ぐらい磨くか、と思う。今日は幸か不幸かチューブのにんにくの存在を忘れていたから、前回のようににんにく臭くはなかったが。
バスルームの脱衣スペースが、イコール洗面所だ。歯磨きをしながら、バスルームの半透明の扉の向こうにいる和樹を眺める。全裸で立っている、というのが分かる程度で、何をしてるかまでは分からない。
「馬鹿、こっち来るなよ。」とバスルームの中から声がした。和樹の側からも見えたらしい。
「歯ぁ磨いてるだけ。そっちで何やってんのか、分かんないよ。」と答えたが、和樹にしてみれば落ち着かないだろうとは思い、いつもならもう少し念入りに磨くところを早々に切り上げて、その場を離れた。
神か天使かと崇拝し、嫌われては生きていけないと心酔し、依存し、甘えている。その対象である和樹を、だが、同時にめちゃくちゃにしたい衝動に駆られる。組み伏せて、辱めて、泣かせたい。
最初はもちろん、そんな風に思っていなかった。見つめられて、名前を呼ばれたら、それだけで他の何も目に入らなくなった。キスするにも震えが止まらなかった。抱きしめられたら心臓が破裂しそうだった。夢か現実か確かめたくて、わざとひどいことをした。それでも和樹が離れていかないことを知って、安堵した。益々好きになった。和樹が愛を囁いてくれるたび、それが本当に自分に捧げられたものなのか混乱した。確証が欲しくて、またひどいことをした。和樹は泣いたり罵ったりすることもあったが、明らかに性的に昂奮していた。涙で潤んだ目は欲情して、罵倒しながらも、もっと激しく求めてきた。
もう今は分からない。泣かせたいのか。悦ばせたいのか。その2つの欲求は、もはや同じ意味になってきていた。
和樹がバスルームから出てきた。髪に湿り気を残したまま、腰にタオルを巻いて。
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