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第962話 Something four (9)

「俺に会いたくなったらいつでも呼べよ。飛んでってやるから」 「飛んでくるの? そうだな、涼矢んち金持ちなんだから、自家用ヘリでも買って、飛んできてくれたらいいな」 「オッケー、分かった。アパートにヘリポートを作ってくれたらそうする」 「一休さんかよ。……あちっ」 「あ、コーヒー熱いから気を付けて」 「言うのが遅えんだよ」  涼矢を責めながらも、和樹は笑っていた。笑っていながらも、少し淋しそうにも見えた。  互いの笑顔に互いの淋しさを感じ取っているうちに、静かに時は過ぎて行った。  夕方になり、そろそろ帰ると立ち上がる和樹を、涼矢も無理に引き留めはしない。 「スーツ買ったら画像送るから、似合いそうなネクタイでも考えておいて」 「おう」  玄関でそんなやりとりをして、最後に軽くキスをした。  一人になった和樹は、無意識に自分の唇を内側に丸め込んだ。そこにはたった今、涼矢の唇が押し当てられていたが、当然の如くになんの痕も残っていない。  何度その唇を貪ろうと、いくら抱き合おうと、互いの体の奥深くまでたどろうとも、物足りないと思う。その一方で、小鳥が果実をついばむようなキスひとつで、このうえなく満ち足りることもある。たとえば、今の、お別れのキス。  心にこみあげてくる温もりとは裏腹に、和樹はぶるっと体を震わせた。来るときには上着を邪魔に感じるほど暖かだったのに、日が落ちれば肌寒い。こんな日を繰り返すごとにだんだんと暖かく感じるほうが多くなって、春になる。銀婚式の頃にはもっと春めいていることだろう。 ――銀婚式、か。  その言葉は、知識としてはあっても身近に感じたことなどなかった。小嶋の母親の通夜を経験した今となっては、葬式よりもずっと遠くにある響きにも思える。 ――だって人はいつか死ぬけど、結婚とか、それも二五年も一緒にいるとか、そんなのは奇跡で。  以前の自分なら奇跡とは思わなかったけれど。自分だっていつかは結婚して家庭を持つのだと、ぼんやりと思い描いていただけだ。ましてやそこから二五年、同じ相手と一緒にいられるかどうかについては考えたこともない。自分の親が何年一緒に暮らしているかさえあやふやなのに。  でも、結婚すら何の裏打ちも持てない今の自分たちは、ひとつひとつをもっと丁寧に考えていかねばならないのだと、涼矢とつきあってから知った。人を好きになること。その人にも好きでいてもらうこと。二人で一緒に暮らすこと。一緒に年月を重ねること。――結婚も、銀婚式も、ぼんやりと思っているだけでは手に入らないんだ、俺たちは。  いや、俺たちだけが特別なわけじゃないかもしれない。それこそ、佐江子さんたちだって「一般的じゃない」夫婦として過ごしてきた二五年は決して平坦ではなかっただろう。ちゃんと祝ってあげなくちゃ。涼矢に言われるまで、そんなものを祝うことになろうとは思いもよらなかったけど。  和樹は去年の夏のディズニーランドを思い出していた。そのときが発端だった。涼矢が突然花嫁のベールのようなカチューシャを欲しがった。面白くもない冗談だと思っていたら、母親にあげたいのだと言い出して、佐江子たちが銀婚式を迎えることを知った。いつの間にかあのおもちゃのカチューシャの案は消え、もっと本格的な祝いの席になってしまったようだが、その気持ちの変化の一因には自分とのこともあるのだろうと想像する。  まだまだ親がかりではあるけど、一応は俺も涼矢も成人して、そんな自分たちの姿を、二人で一緒にいたいという決意を、一緒に生きていく覚悟を、銀婚式を迎える両親に見せたい。おもちゃのカチューシャで冗談めかしたりせずに。涼矢はきっとそんなことを思ったのだ。 ――もしかしたら、親だけじゃないかもしれない。むしろ親以上に俺に向けて、その覚悟を見せたいのかもしれない。そうだとしても、そうじゃないとしても、俺自身はそう思ってる。 ――俺はおまえと一緒にいたいよ、涼矢。これからだって、一緒に生きていくつもりだよ。  そんな佐江子たちの銀婚式を明日に控えた前夜、和樹はふと恵に問うた。 「母さんたちって、結婚して、何年?」 「二六年」 「えっ」和樹は目をしばたかせた。「じゃあ、銀婚式、過ぎちゃったの」なんとなく、佐江子たちより後に結婚したのだろうと思い込んでいた。 「そうよ、去年」 「お祝いとか、何にもしなかったね」 「ふふ」恵は洗濯物を畳みながら笑う。「したわよ、ちゃんと。お父さんと外で食事したの」 「嘘、知らない」 「あんたたち抜きでね。だから今だってすっと出てきたでしょ、二六年だって」  言われてみて気づく。過去の出来事が何年前だったかを知りたいとき、恵はいつも「宏樹は何歳だっけ」から計算を始めるのだ。 「結婚記念日とかって、毎年祝ってた?」 「しないしない。最初の二、三年と去年だけよ。珍しくお父さんのほうが気がついてくれてね」  隆志は記念日を覚えているタイプではない。 「宏樹も合宿か何かの引率で家を空けてたときでね、せっかくだからってレストランに行ったのよ。田崎さんちみたいにZホテルというわけには行かなかったけど」  恵の口から「田崎」の名前が出てきて一瞬ギョッとする。

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