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第186話 それでも、朝は来る。(7)
「そうだ。キムチとかコーンとかも買わなきゃ。」涼矢も立ち上がって、洗面所に行く。髪を直したいようだ。
「ホットケーキの粉とチョコも?」
「ホットケーキミックスはまだある。チョコはないから買う。ゴディバじゃないぞ。ガーナでいい。」
「おまえ、なにげにチョコにも詳しそうだな。」
「別に、普通だろ。和樹こそ、バレンタイン生まれなんだから、詳しくなったら?」
「ホント嫌だよ、バレンタイン生まれって。」
「なんで? らしいじゃない?」
「プレゼントもらっても、告白なのか誕プレなのか分かりづらくて、反応に困る。」
涼矢は洗面所から出てくる。「何それ、モテ自慢か?」
「ひがむなよ。」和樹は涼矢の肩を叩いた。「ま、これからは困んないからいいや。」
「困んないの?」
「だって、これからは全面的にお断りすればいいわけだろ? おまえからもらうもの以外。」
「もらえる前提の発言だな。俺からも、その他からも。」
「そりゃあ、涼矢くんはすっげえいいもん、くれるでしょ?」そんなことを言いながら、和樹が先に外に出た。
「俺がおまえにあげられる最高のものと言ったら」続いて涼矢も外に出る。「溢れんばかりの愛だな。」
涼矢がその後半の言葉を発したと同時に、隣室のドアが開いた。例の、ひよわそうな若い男が顔を見せる。彼に涼矢の言葉が聞かれたかどうかは不明だったが、男は2人の姿を見てビクッとしながら「あっ、すいません。」と小声で言った。よれよれのポロシャツにハーフパンツという、随分とラフな格好だ。平日の昼間だというのに、その姿で家から出てきたということは、休みでもとったのだろうか。
「あ、いえ、こちらこそ。」和樹がペコリと頭を下げた。隣人がドアを閉めて立ち去らないと、2人は先に進めない。男は焦った様子でドアの鍵をガチャガチャ言わせるが、緊張しているのか、鍵穴にうまく鍵が入らない。
「今日はお休みですか。」涼矢が淡々と言う。
「あっ、はい、いえっ、あの休日出勤の代休でっ、あ、だから、はい、つまり、休みです……ね。」まだ鍵がはまらない。「あの、どうぞ、お先に。」彼はドアにぺったりと体を寄せて、道を空けてくれた。
「どうも。」和樹はもう一度軽く会釈をして、彼の前を通り過ぎた。涼矢もその後に続く。彼の前を通り過ぎる時、ふとした悪戯心が湧いた。涼矢は少し早足になって和樹の隣に並ぶと、腰に手をまわして、階段を下りた。
「馬鹿、何してんだよっ。」「別にいいでしょ。」階段を下りる2人の声だけが、隣人の耳にも届いた。廊下に崩れるようにしゃがみこむ隣人の姿は、和樹も涼矢も見ることはなかった。
アパートが見えなくなったところで、涼矢は腰の手を放した。和樹が抗議する。「おまえ、わざとだろ。」
「うん。」顔色ひとつ変えずに涼矢が言う。
「なんでそんなことするんだよ。おまえはいいよ、でも、俺、あそこに住んでるんだからな。」
「かわいそうに、もうすぐ和樹のエロい声、聞けなくなっちゃうね、お隣さん。」
和樹は涼矢の脇腹を肘で小突いた。「言うな、馬鹿。」
「ああ、でも。」
「なんだよ。……あ、いや、やっぱいい。言うな。何も言うな。」
涼矢は横目で和樹を見て、ニヤリと笑う。
「勘弁してくれよ、ホントに。」
涼矢は話題を変えた。「なあ、今向かってるのは、いつものスーパー?」
「そうだけど。」
「じゃあ、あの喫茶店の近く、通るよね。」
「うん、まあな。」
「別にモーニングじゃなくてもさ、コーヒーだけ飲んでいかない?」
「さっき家で飲んだし。」
「あんなのじゃなくてさ。ちゃんとしたやつ、飲みたい。腹はそんな減ってないけど。」
「そりゃあんだけ食ってりゃな。でも、今、ちょうどランチタイムだし、お茶だけって悪いよ。」
涼矢はスマホの時刻表示を見る。「そっか。……和樹って結構そういうの、気を使うよね。」
「意外に、って言わなかったな。」
「意外じゃないもの。対人関係には気を使うタイプだろ。」
「そんなに気合入れて気を使ってるつもりもないけど。」
「ナチュラルにそういう気が回るのか。すごいな。いや、知ってたけど。接客業とか向いてそう。」
「塾講は接客業かな。」
「そうでしょ。こども相手なんて一番ハードル高い接客業。」
「そうか? こどもなんか単純だし、可愛いだろ。」
「可愛いなんて思ったことない。小っちゃい子はどう扱ったらいいか分かんないし、10歳ぐらいのも思春期だ反抗期だって、なんか怖いし。」
「怖い?」
「怖いよ。何考えてるか分かんない。全然単純じゃない。」
「自分のこと思い出せば大体分かるじゃない。あ、女子はよく分かんねえけど。」
「だって俺、メインストリームから外れているこどもだったから。」
「好きな相手が男ってだけで、後はおんなじだろ? つうか、そこが違うっつんなら、みんな違うだろ? 普通に女が好きでも、大人しい子が好きな奴もいれば、お転婆なのが好きな奴もいるんだし。」涼矢はぽかんとした顔で和樹を見た。「なんだよ、その、涼矢らしからぬアホ面。」
涼矢はプッと吹き出した。「本当にね、和樹は、すごいね。」
「褒めてんのか、それ。」
「褒めてるよ。」涼矢は愛しそうに和樹を見る。「時々、思うよ。和樹は、神様みたいだ。」
「はあ? なんだ、それ。」和樹は眉をハの字にして、笑いながら呆れたような顔をする。
「神様だよ。俺の神様。」
「ふうん。……じゃあ、もうちょっと大事にしろよな。」
涼矢はもう一度吹き出した。「そうだね。大事にしなきゃ。」
和樹もまた呆れたように笑う。特にHの時はもっと大事にしてくれ、そう言いそうになる。でも、あれはあれで大事にされている気もする。ムチャクチャされてるようでも、なんかこう、愛されてる感は半端なく伝わってくるし。
と、そこまで考えたら、赤面してしまった。愛されている感って何だよ。自分の思い浮かべた言葉が恥ずかしくなって、意味もなく空咳をした。
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