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第187話 それでも、朝は来る。(8)
「どうした?」涼矢が顔を覗き込んだ。「顔、赤いぞ。咳もしてるし、風邪ひいた? 熱でもある?」言いながら和樹の額に手が伸びてきて、和樹はとっさにその手をよけた。
「違う。平気。なんでもない。」
涼矢の表情が心配から疑惑へと変化する。「なんか変なこと、考えた?」
「へ、変なことなんてっ。」
「考えたんだ?」和樹の焦った態度に、涼矢はニヤニヤした。
「なんでもないっての。」
涼矢は和樹の肩に腕を回し、和樹を引き寄せると耳元で囁いた。「当てようか? 大事にするなら、セックスの時、もっと優しくしろよって思っただろ?」
和樹はその腕を振り払った。「思ってないし。」
「ふうん?」
「別に、優しくされてないって思ってないし。」改めて言い直す。
涼矢が目を丸くして驚いた。「へえ、そうなんだ?」
「あ、いや、優しいとも思ってないけど。でも、優しくなくもないっていうか。……もう、いいだろ、真昼間の道路で話すことじゃない。」
「そうだな。」涼矢は顔のニヤつきが止まらないと言った様子だ。もっとも、それは、和樹にしか見分けられない程度の表情筋の動きで、傍目には無表情の域だろう。「それについては、深夜のベッドで聞かせてもらう。」
「バーカ。」和樹は冷ややかな目で涼矢を見た。
2人はスーパーで一通りの買い物を済ませ、またアパートへと戻った。隣人も既に外出から戻ったかどうかは分からないが、あのラフな格好から考えれば、近場にちょっと出かけただけと考えるのが妥当だろう。涼矢は隣室のドアの脇にある、部屋番号のプレートに目をやった。その下には名前を入れるべきスペースが空いているが、何も書かれていない。和樹の部屋も同じだった。おそらくこのアパートの住人は誰も表札を出していないはずだ。1階には集合ポストがあるが、そこも同様に部屋番号の表示しかない。
「表札ないから、隣の人の名前も分からないね。」部屋に入ってすぐ、涼矢が言った。
「うん。別に知る必要もないし。回覧板回すこともなければ、ゴミ当番もないんだから。」
「隣に誰が住んでるかも知らない、か。東京だなあ。」
「慣れれば楽だよ。それに、そういうことが、イコール東京の人って冷たいってことでもないって、最近分かってきた。」
「そうなの?」
「"人それぞれ"が徹底してるっていうのかな。それってすごく冷たく聞こえる時もあるけど、みんなと同じじゃないことが気になるって時には、救いの言葉に聞こえるだろ? 自分の生まれ育った町じゃ生きづらかった人でも、ここならやっていける……みたいな、そういう懐の深さがあるなって思う。」
「なるほどね。だから隣の男子学生が男を連れ込んでも、気にしないのか。」
和樹は涼矢を一睨みして言った。「……それはお隣さんが個人的に懐が深いんだろうが。」
「ま、あの人は、懐が深いと言うよりも、小心者で言いたいことも言えないって感じだけどな。」
和樹は涼矢の頭をごく軽く小突いた。「そういうこと言わないの。さっきのあれも、いじめちゃかわいそうだろ。」
「ちょっとからかっただけだし。」涼矢は笑う。
「それは加害者の論理だ。おまえこそ、被害者の立場に立って考えないといかんだろ?」
「うーん、それはちょっと違うな。加害者にも被害者にも、どちらにも寄らないのが正義だ。……でも、今のは、確かに加害者って言うか、強者の論理だね。反省しますよ。」
「涼矢くんさぁ、いじめられっこのふりして、実はいじめっこだよね。」
「そんなことないだろ、柳瀬や哲にも冷たいとかひどいとかよく言われるけどさ、俺に何を期待してんのって感じ。期待する方が悪い。」
「もう、それがいじめっこ的発言じゃんかよ。俺だって超いじめられてるし。」
「え、そんな覚えないけど?」涼矢はニヤつきもせず、そう言う。本当に自覚がないのか? 和樹のほうが唖然とする。あんなことまでしておきながら?
「だっ、えっ、ちょ、ないの? 身に覚え?」
涼矢は顎に手を当てて考え込む。「強いて言うなら、家政婦のようにこき使われる俺のほうが、いじめられてないか? それだってまあ、好きでやってるんだから、俺は気にしてないけどね。」
「えええー。」和樹は世にも情けない声を出す。「そう思ってんなら、いいよ、もう。」和樹はベッドの上に飛び乗るようにして移り、枕を抱いて壁のほうを向いて寝転がった。
涼矢は今度こそニヤニヤしながら和樹に近づいて、ベッドに腰掛けた。「なんだよ、可愛いポーズしちゃって。誘ってんの?」
和樹は涼矢のほうに向き直った。「それ!! そういうの!! いじめだろ!! 俺に対して、そういう、その……いろいろ!!」
「あ、そういう系の話?」涼矢は前髪をかき上げる。「でも、それは、違うよね?」
和樹は手にしていた枕を涼矢に投げたが、涼矢はそれを予測していたように平然と受け止め、重ねて「違うと思わない?」と言った。
「……。」答えに窮する和樹だった。
「ま、いっか。」涼矢は立ち上がり、枕をベッドに戻した。「なあ、たこ焼きって晩飯にする? それとも、昼?」
「まだ腹減ってない……から、夜。」
「オッケー。」涼矢が服を脱ぎ出して、和樹は一瞬ギョッとしたが、部屋着に着替えるのを見て、なーんだ、と思った。そう思って、なーんだ、とは何だ!!と自問自答した。着替えを終えた涼矢は、おもむろにキッチンに立ち、何か作りだした。
「腹減ってないって言ったんだよ? 何か作るの?」
「ジンジャーシロップ。」涼矢は和樹に背を向けて生姜を薄切りにし始めた。「置き土産にね。」と呟くように言った。
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