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第969話 Something four (16)
「このぐらいで勘弁してくれるかな。年頃の息子たちが見てるもんで」
言葉の割に落ち着いた様子で正継が言う。
「あら、パパとママが仲良しなのは恥ずかしいことじゃないわよねえ」
アリスが涼矢に向かって言った。
「俺に振らないでください」
仏頂面で涼矢が答えた。それが照れ隠しなのはこの場にいる誰もがお見通しだ。
「四半世紀も好きな人と仲良くいられるなんて、本当に幸せなことだもの。その上で、たった今、この先もずっと愛することを誓ったのよ。すごいわよねえ、普通は二五年も一緒にいればちょっとは嫌気がさすもんだわよ」
「その二人はろくに一緒にいなかったから」
「だから、もっとすごいんだって。あなたたちこそ分かるでしょ、離れている相手を信頼するのって大変だわ」
涼矢は言葉に詰まる。和樹もこればかりは助け船を出せるはずもなかった。
「確かに、夫婦円満は恥ずかしいことではないね。アリスの言うとおりだ」正継が口を開く。「それに涼矢の言うとおり、私たちは嫌気がさすほど暮らしを積み重ねてもいない。特に育児は佐江子さんに任せきりで、私はいいとこ取りだった」
「私も育児はほとんどしてないけどね」
「それでも佐江子さんは私を夫だと言ってくれるし、君は父親と呼んでくれるのはとてもありがたいと思っている。これは本当だよ? 我が家は、法律的にも、生活スタイルとしても何の後ろ盾もない家族だからね。涼矢が私を父親とは思わないと言ったら、それだけで他人なんだ」
涼矢は少し迷った表情を浮かべた末に、ボソリと言った。
「……父親じゃないなんて……そんな風に思ったことはない。一度も」
「ああ。そうだと思う。君がそう言ってくれるのは、佐江子さんが君にそのように接したからだ。私がその言葉を信じられるのも、佐江子さんが私を不安にさせないよう、いつも語りかけてくれたからだ」
「そんな大層なことじゃないって」
佐江子が茶々を入れる。
「でも、佐江子さんもそろそろ楽していいと思うんだよ」
「楽?」
涼矢が聞き返す。
「少し前に話をしたね。佐江子さんと婚姻届を出して、私が深沢姓になろうと思う。それでひとつ、法律婚という盾はできる。今更かもしれないが、少しは面倒ごとが減るだろう」
「あらっ、まーくんたらそんなこと考えてたの。もしかして婚姻届、今日持ってきてる?」
いくらなんでもそんな用意周到なことはしないだろう、という涼矢の予想を裏切り、正継が胸の内ポケットから紙を取り出した。
「せっかくこういう場を設けてもらったから、アリスにお願いしようと思って」
正継の指先は婚姻届の証人の欄を指していたが、肝心の正継や佐江子の名前もまだ記入されてはいない。まったくの白紙だ。
「さっちゃんはそれでいいの?」
アリスに問いかけられても答えることなく、佐江子もまた正継の手元と顔を交互に見た。どうやら婚姻届は正継一人で考えたことのようだ。それでも佐江子はすぐに納得の表情を浮かべ、頷いた。
「そりゃもちろん、田崎さんがいいなら」
「そう言えば、まーくんが深沢になるなら、その呼び方ともお別れってことね」
「別に無理に改める必要もない。ニックネームだと思えば」
そんなことを言いながら、三人はカウンターに広げた婚姻届を覗き込む。その背後から一二三がボールペンを差し出した。
「ありがと」と受け取ったのはアリスだ。「でも、証人て二人必要でしょ? もう一人はどうするの」
「一二三ちゃんにお願いしていい?」
佐江子が言うと、一二三がたじろいだ。
「いえ、そんな大役、私には」
「いいのよ、形式的なものなんだから」
そのときだ。
「なあ。それ、二十歳以上なら誰でもいいんだろ」
涼矢が口を開いた。
「ああ、成人していれば、誰でも……。そうか、涼矢ももう二十歳過ぎたんだから、君でもいいわけだな」
「あら、それなら私や一二三なんかより、そのほうがいいじゃない。涼矢くんと和樹くんに書いてもらったら?」
突然の名指しに驚いたのは和樹だ。
「えっ、いや、それは」
さっきの一二三同様に狼狽え、後ずさりする。助けを求めるように涼矢を見たが、考えてみれば名乗りを上げたのは涼矢のほうだ。どういうつもりでそんなことを言い出したのか和樹にはさっぱり見当がつかない。
「今の、聞いてただろ。形式的なもんだって」
「でも」
「いいだろ?」
涼矢が問いかけたのは正継と佐江子に対してだ。
「もちろん。親が子の証人になるのはよくあるけど、逆パターンてのも面白いじゃない。我が家らしくていいよ」
「では、まず我々が署名を」
正継がさらさらと名前を書き、次いで佐江子が書き込んだ。が、すぐに困った顔で正継を見上げる。
「印鑑なんか持ってきてないよ」
「だろうね。まあ、今日のところは形式的なものだから」
「なんだか今日はそんなことばっかり言ってる」
「形式も大事だよ」
「まあね」佐江子は書き終えた紙を涼矢のほうに突き出した。「それを私たちが言うなって言いたいでしょうけどね、はい、お願い」
婚姻届とペンを手にした涼矢がまず記入した。正継の字とよく似ている、と横から見ていた和樹は思う。少しばかり神経質そうな、右肩上がりの文字。
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