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第970話 Something four (17)
「俺も公式な文書にこの名前書くの、これが最後かもしれないから」
涼矢が呟いた言葉を正継が拾う。
「君も深沢の姓になる?」
「うん。これが済んだら、養子縁組の手続きのほう、よろしく」
佐江子が目を細めた。
「そうか。そう決めたんだ?」
「うん」
涼矢から渡されたペンで、和樹は自分の名を書いた。都倉和樹。この名前もまた、そのうち、変わるのかもしれない。隣の田崎涼矢の文字を見つめる。これが深沢涼矢に変わったとして、何が変わるということもないだろう。
「さんずいだらけになるのが、ちょっと嫌なんだけどね」
書き終えた婚姻届を見つめ、涼矢が言った。
「さんずい? ……あ、そうか」
涼矢が深沢姓になればフルネーム四文字のうち三文字をさんずいの漢字が占めることになる。が、名前なんか識別記号に過ぎないと言い放ったのは涼矢だ。なのに妙なところにこだわる奴だ、と和樹は思う。思いながら、タサキカズキじゃ漫才コンビみたいで嫌だと言った自分と大差ない、とも思う。
「それね、私も思った。私も深沢佐江子で、さんずい多いじゃない? なんで親はそこんとこ考えてくれなかったかなーって思ってた。そう思ってた割にごめん、あなたまで深沢になるのは予定してなくて」
涼矢はふふっと笑った。
「大した問題じゃない。和樹が、そのうちなるんだったらタサキカズキよりフカサワカズキのほうがいいって言うから、そっちのほうが優先」
「ちょ、おい」
焦る和樹に追い打ちをかけるように、アリスが大げさに感嘆の声を上げた。
「親よりよっぽど先のこと考えてるのねえ、さっちゃんもこれなら安心ね」
「い、いや、俺は、そんな」
「考えてる」
和樹と涼矢の声が重なり、和樹のほうが黙り込んだ。
「考えてるよ」涼矢は繰り返す。「ちゃんと考えてる」婚姻届を両手で持ち、賞状を授与するように佐江子に向けた。「あなたたちみたいに、なりたいと思ってる。だから……まあ、今後とも、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる涼矢の隣で、和樹も頭を下げた。
「ありがとう」佐江子は順に二人をハグした。「可愛い息子たちに恥ずかしくない親になれるよう、がんばるよ」
涼矢が笑った。
「息子が二十歳になってからそれ言う?」
「何歳だってこどもはこどもだわ」
親らしいことなんかしてもらってない。佐江子に向かって、そんな減らず口を叩いたこともある。それを佐江子も否定しない。長く離れて暮らしていた父親にしてもそうだ。でも、確かに自分はこの人たちのこどもなのだと思う。この人たちに愛されてきたし、今でも愛されている自信はある。人として大切なことの大半をこの人たちから教わったとも思う。
「何歳だって親子は親子だけど、夫婦は他人だからね。その紙を出そうが出すまいが、そこんとこは変わらないわよ」
アリスの声がした。
「ちょっとはじめちゃん、このシチュエーションでそんなこと言わないでよ」
すかさず一二三が批難する。
「違う違う、だから私は二人を尊敬してるってことを言いたいの。私はそれを分かってなくて、一度目の結婚は失敗しちゃったから」
「それは相手の浮気が原因でしょ、はじめちゃんは悪くないじゃない」
一二三はアリスの過去のこともある程度知っている様子だ。
「でも、僕だって悪かったんだよ。稼ぐことを言い訳にして家庭をほったらかしにしてんだから」
女装姿のまま、アリスは男言葉になる。心なしか声も低い。
「アリスのやることはなんでもめちゃくちゃで、誰が悪いなんて言える代物じゃないもんね」
フォローのつもりなのか、佐江子があっけらかんと言った言葉に場が和らぐ。
「それでもどっちが悪いかを決めなきゃならないときはあるし、そのためにさっちゃんたちみたいな仕事があるのよね。あんたたちって、ほーんと因果な商売ね」
今度はアリスが芝居がかったため息をついた。
涼矢は思い出す。妻の浮気で離婚することになったアリスは、こどもの親権を争って裁判を起こし、そのときに佐江子には随分と世話になった――確かそんなことを言っていた。一二三の腹違いの姉にあたるそのときの「子」は裁判に勝ったアリスが引き取ることになったが、今はひとり離れて暮らしているはずだ。一二三夫妻にそのこども、三七十、六三四、それに六三四の妻と子。「大家族」のアリスの家にあって、アリスがそうまでして勝ち取ったその「子」は家庭の中に「居場所」を見つけられなかったのだろうか。
一時期は哲さえも招き入れて家族の一員のように接していた。哲はここで初めて家族のぬくもり、のようなものを知ったはずだ。それでもやっぱり一二三が戻ってくると聞けば自分から出て行った。
思えば、哲は、ずっとそうだった。
幼少期は母一人子一人で、母親は不在がちで、ひとりぽっちだった。やがて母親は再婚し、父親違いの弟妹が生まれたが、自分はその家族の「一員」にはなれずに家を出た。叔父の家に居候することになったが、そこでもまた厄介者扱いだっただろうことは想像に難くない。倉田をはじめとした「男」たちの部屋を転々としていた時期もあったに違いない。だが、そのひとつとして哲の居場所にはならなかった。そして、アリスの家にたどりついた。六三四と淡い友情のようなものを結びつつ、その娘の百になつかれ、疑似家族を味わった。疑似でもよかった。あのときの哲にはそういう愛情が必要だった。彼の感情の複雑さは、それゆえに却って短絡な行動へと走らせていた。好きと思えばセックスを求め、拒否されれば自傷する。
そういう哲を、崖っぷちをヘラヘラ笑いながら歩いているようだ、と言ったのは俺だったか、和樹だったか。
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