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第971話 Something four (18)

 もっと細やかなのだ。人の気持ちは。いくら裁判でどちらがどれほど悪いかを断罪したところで、それがすべてじゃない。有罪とか勝訴とか、そんな言葉からこぼれおちてしまうような、ほんのささいな感情がどれほど大切か。哲にそれを知ってほしかった。義父を愛したこと、あるいは俺を好きになったことを、たとえその恋が成就しなくても「罪」と思って欲しくなかった。でも、俺にはできなかった。俺がやろうとすれば「罰」になってしまう。倉田さんでもダメだった。――だから他の誰かが。誰かに、あいつを救ってやってほしかった。  アリスはその望みを、すべてではないけれど、かなえてくれた。ここに居座るようになってからの哲は随分と安定しているように見えた。人一倍大きな愛情を、臆することなく傷ついたこどものために注ぐ、アリスだからできた。アリスがそうなるに至るまでには、若い頃の挫折や前妻との離婚、それから六三四の非行、そういう経験があったと思うけれど。そして、そんな人でも、哲を完全に「家族」にはできなかった。血を分けた親子兄弟でさえ上手いかないことだってあるのだ。ましてや他人同士が「家族になる」のは簡単なことじゃない。 「じゃあそろそろ、お写真撮りましょうか?」  一二三が声をかけ、佐江子と正継が移動した。  さっきは佐江子の支度のために使われたパーティションに、大きな白いパネルが引っかけられた。即席のレフ板ということらしい。スタンド式のライトも置かれた。  見慣れない顔の母親だった。一二三に「笑って」と言われても、口元が歪んだへの字になるばかりだ。父親はどうかと思えば、飄々としていていつもと変わらないように見える。その正継がふいに隣の佐江子に語りかけた。 「マグショットでも撮ってると思えばいい」  その言葉に佐江子が吹き出すと、すかさずシャッター音が鳴った。佐江子の緊張は一気に解けた様子で、そこからは順調に撮影が進んでいった。 「今、親父さん、なんて言ったの?」  和樹が小声で涼矢に尋ねる。 「マグショットでも撮ってると思えばいいよって。マグショットってのは、犯罪者が逮捕されたときに撮る写真。海外のドラマで見たことあるだろ、背後に身長の目盛りがあって、正面顔と横向きと……」 「ああ、あれか。分かった」  それを聞いて和樹も納得し、と同時に口に手を当て、空咳をした。笑い出しそうになったのを誤魔化したようだ。 「あんなおふくろ、初めて見た」 「佐江子さん? うん、今日、すっげえきれいだよな。……いや、いつもおきれいですけど」 「お世辞は要らないし」 「お世辞じゃないよ。やっぱ嬉しそうだし、幸せオーラ出てて」 「そう見えるんだ?」 「息子的には違うの?」 「……よく分からない。ただ、いつもとは違うなって」 「親父さんも嬉しそうだよ」 「そうか? あっちはいつも通りだろ」 「まあ、いつも通り落ち着いてはいるけど、前に会ったときより肌つやがいいっていうか」 「肌つや」  涼矢は和樹の言葉を繰り返して笑った。あと少しで定年を迎えようとする男の肌つやなぞ、気にしたこともない。だが、言われてみればそんな気もしてきた。 「次はご家族で写真撮りましょう」  一二三の声かけに、和樹は涼矢の肩を押した。 「ほら、呼ばれてんぞ」 「ああ」  一瞬心細そうに和樹を見てから、涼矢は両親のもとに向かう。 「あの、かあさ」  言いかけた涼矢に被せるように佐江子が言った。 「和樹くんもおいで。一緒に撮ろう」 「いや、それは」  和樹は二、三歩後ずさりする。 「なんでよ、あなたも可愛い息子でしょ」 「や、でも、その、写真って、ずっと残るもんだし」  焦る和樹に、正継が「いつも通りの冷静さ」で言う。 「残ると何か問題が?」  和樹の脳裏には、横縞の囚人服を着た自分の「マグショット」が浮かんだ。  涼矢の家の「家族写真」に、自分もその一員として姿が残る。それは光栄なことには違いない。けれど、そのことを彼らはいつか後悔しやしないかと思ってしまう。 ――だって、まだ俺たちはただ恋人ってだけで、何の保証もなくて。  だが、それを言うなら、たった今婚姻届を書いて、しかしながらまだ役所で受理されてもいない佐江子と正継と何が違うのか。 ――でも、二人には涼矢という血を分けた息子がいて、それが何よりの絆の証で。  その絆を自分と涼矢は未来永劫得られないのだと思い、でも、かつて涼矢が「自分もまたこどもを持つことで親孝行が完結する」と言ったとき、そんなものは関係ないと言ったのは、他の誰でもない自分だったと思い出す。  家族写真に「残る」ことが問題になるとしたら、それは涼矢と別れたときだ。もうこの家族との縁が切れたとき。俺が何かしでかして、涼矢のそばにいられなくなったら、彼らは後悔するだろう。あんな奴を神聖な銀婚式に招いて、大事な家族写真に納まらせるんじゃなかったと。 ――そんなはずない。そんなことにはならない。俺はずっと涼矢といる。涼矢と家族になる。てことは、涼矢の家族とも家族になるんだ。

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