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第975話 揚雲雀 (2)
――暑いな。動きづらいし。
涼矢は自分だけジャケットを脱ぎ、ネクタイを外し、ついでにワイシャツのボタンも一つ二つ外した。眼下の和樹が恨みがましい目で見ている。顔は真っ赤で汗だくだが、スーツを着込んでいるせいだけだろうか。
「すごく似合うよ、そのスーツ」
「るせ」
和樹の反撃は弱々しい。
「もう少しだけ、我慢して」
そう言いつつもさすがにかわいそうになり、辛うじてネクタイだけは緩めてやった。和樹はほっとしたように息を吐く。
「大丈夫? 動いていい?」
涼矢が甘い声で囁いた。ずるい、と和樹は思う。一方的にスーツを脱ぐなと命令し、自分だけ涼しい顔で好き勝手にしておいて、この期に及んで、そんなことを。
「……さっさと動けよ」
言い終わらないうちに涼矢が一気に奥まで入って来る。ということは、「動くな」と言ってもそうしていたはずだ。つくづく勝手な奴――いや、違う。和樹は涼矢の背に爪を食い込ませた。
――俺が動くなと言うわけがないと……分かってただけだ。
「涼矢」
「ん」
「好き」
「俺も好きだよ」
――本当にずるい。こんなときだけ、極上の笑顔を見せやがる。
「知ってる」
――ああ、知ってる。今だってうるさいほど伝わってくる。おまえの目も、唇も、全身で言ってる。和樹、好きだ。愛している。身体の奥でだって感じる。熱い皮膚からだって分かる。おまえは? おまえは分かってるか? 俺が、どれほどおまえのことを。
「愛してる」
自分の頭の中に思い浮かんだはずの言葉が外から聞こえてきた。涼矢の声だ。
「俺だって」和樹は涼矢の頭を引き寄せる。「愛してるよ。おまえだけだ」
涼矢が満足げに笑うのが見える。
「動いて。もっと。いっぱい」
和樹が言い、涼矢はその通りにした。
結局その日のうちに佐江子たちが帰宅することはなく、朝になっても階下は静かなままだった。迎えに来いと呼び出されたら車を出し、そのついでに和樹を送ると言っていた涼矢だが、十時を過ぎる頃になると考えを変えたようだ。
「先におまえを送っていくよ。あの人たち待ってたら動きが取れない」
「そのままタクッてデートにでも行ってるんじゃないの。新婚さん気分で」
「だったら連絡ぐらい寄越せよな」
涼矢の愚痴が恵の小言と重なって耳が痛い。
そうして和樹の自宅に向かって走り出して間もなく、スマホが鳴った。画面には「正継」と表示されている。和樹はふと違和感を覚える。
「親父か。タイミング悪いな」
涼矢は無視して車を走らせ続ける。コールバックしたのは信号待ちのときだ。二言三言の会話の後で、もうしばらくしたらそっちに向かう、と答えている。相手はまだ何か言っている雰囲気だったが、信号が青に変わると涼矢は一方的に通話を切り、車を発進させた。そこで和樹は違和感の正体に気づいた。自分のスマホには「父」と「母」で登録している。「隆志」と「恵」ではない。「宏樹」は「宏樹」だが。それがどうしたというわけでもないが、なんとなく涼矢らしい、と思う。
「気ぃ使ってくれたのかな」
「誰が」
「おまえのパパとママ」
「どこをどうしたらそんな発想に」
「俺が泊まってるの分かってて、ゆっくりできるようにって」
「……そんな気を遣うような人たちじゃない」
「そうかな」
「そうだよ。だいたい、どこの世界にラブホ代わりに自宅提供する親がいるってんだよ」
「こそこそ隠れて変なラブホ行かれるより安心って思ったのかもしれないだろ」
「随分物分かりのいい親だな」
「物分かりいいだろ、佐江子さんたちは」
「そんな……」
「そんなことないって思うか?」
「……」
あれを物分かりがいいとありがたがるべきかは知らないが、佐江子も正継も合理的な思考回路の持ち主ではあると思う。そう考えると、和樹の言うことにも一理ある気がしてくる。だが、単純にそうと割り切れるのは佐江子のほうだけで、正継は合理的な考え方のくせに対人関係には回りくどいところもあって、言われたことを言葉通りに受け止めていると痛い目に遭う。
つらつらと正継のことを考えているうちに、涼矢は思い出した。
「ああ、そうだ、言い忘れてたんだけど」
「なに?」
「親父、春から東京だって」
「へ?」
「札幌から東京に転勤」
「うっそ。俺んちの近く?」
「どこって言ってたかな。二三区内ではあるから、どこだとしても遠くはねえだろ」
それは昨日、アリスの店に向かう車中で突然もたさらされた情報だった。佐江子は一足先に知っていた様子でさほどの驚きは見せていなかったが、北海道グルメが遠のくのが残念だと笑った。
「なんか、喜んでいいのかどうか複雑だな」
「別に喜ぶ要素はないだろ」
「え、なんで。お近づきのチャンスじゃない?」
「近づきたいのかよ」
「いや、まあ、緊張するけど、仲良くなって悪いことはないだろ。それに俺、年上の人と話すの結構好きなんだよな。いろいろ勉強になるし」
「和樹は人間が好きなんだろ。こどもも好きだし」
「……ああ、そっか。そうかも」
なんの気なしにそう言って、和樹は窓から外を見る。自宅のマンションまでもうすぐだ。
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