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第977話 揚雲雀 (4)

「じゃあ、涼矢からアリスと一二三ちゃんに確認して。予算超えるようなら援助するし」 「ああ、うん」  今回の件は自分の一存で始めたことだ。援助なんかされたら格好がつかない。そう思ったが面倒で適当に答えた。 「都倉くんの分はどうする予定でいる?」  背後から声がした。後部座席の正継だ。 「……成人式の写真はちゃんと請求するよ、実費」 「事前に話すべきことだったな」 「そうだけど、金額確認し忘れてたのは俺の落ち度で、あいつは払うつもりでいるよ」 「何故分かる?」 「俺にたかるような奴じゃない」反射的に語気がだいぶ強くなってしまう。それに気づいて慌てて付け足した。「金のことは和樹のほうがしっかりしてるから。俺が東京行ってるときだってメシ代もちゃんと折半してる」 「ほう。一人暮らししてるだけのことはあるね」  まるでそういう回答が来ることが分かっていたかのように悠然と言う正継に、涼矢は少々苛立ちを覚える。回答を予測していたどころか、はなからそう言わせるための誘導尋問であったようにも思えてきた。 「どうせ俺は親のすねかじりだし」  開き直って言ったセリフに笑ったのは佐江子のほうだ。 「そう拗ねなさんな。他にもいろいろお金かかってるでしょ、私のレンタルドレス代だのなんだの」 「それは大した金額じゃなかった。もっと高いのにして良かったのに」 「遠慮したわけじゃないよ。気に入ったのがあれだったの」 「それならいいけど」  その後は大した話題もしないままに家に着いた。ただ、正継は佐江子のドレスがレンタルだとは知らなかったようで、「せっかく似合っていたのに」「今から買い取れないのか」などと言っては、佐江子に「着て行くところもないのに要らない」と一言で却下され意気消沈している様子がうかがえて、涼矢はわずかながら溜飲を下げた。  家に到着し、着替えをし、一息ついたところで正継が「ああ、そうだ」と言い出した。と言っても佐江子はのんびりする様子もなく、ドレスを返却用の箱に戻す作業を始めており、その手を止めずに「何よ」と返事をする。 「今日のうちに役所に行くかい。三人揃ってるし」 「婚姻届に俺は要らねえだろ」 「養子縁組の処理も同日にできる」 「……」  深沢の姓になるという決心はしたはずだったが、いざ具体的な局面に立たされると複雑な思いにとらわれる。 「別に今決めなくてもいいよ。お父さんも帰ってきて早々そんな話しなくたっていいでしょ。涼矢だって疲れてるだろうし」  佐江子が言う。市役所に行くならまた涼矢が運転手をしなければならない。そのことを慮っての言葉だろう。 「車出すのはいいけど、そっちこそ疲れてんじゃないの」 「疲れたよ」佐江子は苦笑いした。「寄る年波には勝てないね」 「じゃあ、少し休んでからにしよう」  正継はそう言うと自らキッチンに立ち、コーヒーを淹れる準備を始めた。不在の多い父親のその姿を見る機会はほとんどないが、涼矢がコーヒー好きになったことの理由のひとつには、確実に正継からの影響があった。 「涼矢」  ドレスの作業を終えたらしい佐江子がダイニングテーブルの椅子に座った。そこは佐江子の定位置だ。涼矢も自分の定位置、即ち佐江子の対面に座る。 「なに?」 「本当にいいんだよ? 今すぐ決めなくたって。ずっと田崎のまんまでも」 「もう決めたから」 「さんずいばかりなっても?」  涼矢は笑った。「いいよ、別に、そんなことは」 「私の名前なんかどう書いてもバランス悪くてね、そんなことって言うけど意外とストレスなもんよ、自分の名前っていちばん書く字なわけだし」  バランスも何も、そもそも字は下手なくせに。だったら田崎になればよかったのに。……思い浮かぶ返事はそんなことばかりで、涼矢はこれなら黙っておいたほうがマシだと思う。 「佐江子さんの字、私は好きだよ。勢いがあって」  そう言いながら正継は三人分のコーヒーをテーブルに置き、佐江子の隣に座った。  和樹の字を見ると自分も似たようなことを考える、と涼矢は思う。変なところばかり似る。 「文字には人柄が現れるって言うもんね。あなたたちは几帳面な字を書く」  涼矢はコーヒーを一口含む。ふわりと鼻腔を通り抜けていくのは、どこか懐かしさを感じる香りだ。 「あそこの缶にあった豆を使わせてもらったよ」それは東京の、あの喫茶店のマスターに教えてもらった"涼矢スペシャル"のレシピを再現すべく、贔屓にしているコーヒー豆専門店でブレンドしてもらったものだ。「美味いブレンドだな。上品な酸味もあって」 「うん、美味しい」  両手でマグを持って笑う佐江子が、少女のように見える。昨日の余韻だろうか、と涼矢は目をこすった。 「眠いの?」 「いや」 「やっぱり疲れてるんじゃないの」 「平気だって。若いんで」 「腹立つ子ね」  不思議な気分だった。コーヒーの香りは簡単にあの喫茶店の記憶を呼び覚まし、和樹やマスターがすぐ近くにいる気がする。けれど実際目の前にいるのは両親で、記憶と現実が錯綜し、今どこにいて誰と話しているのかがあやふやになる。

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