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第978話 揚雲雀 (5)
「そうだ、涼矢」今度は正継が話しかけてきて、涼矢はハッと我に返った。「札幌で乗ってた車は処分するつもりだが、構わないね?」
「BMWを東京に持って行く気?」
「いや、東京ではそんなに乗る機会がなさそうだから、いったん車なし生活を試すつもりでいる」
「へえ」
多趣味な正継は自動車も好きで、涼矢の記憶の限りでは車を持たない生活をしたことはないはずだった。だが、和樹の生活環境を考えたら、確かに都心部で暮らす分には必需品ではないだろう。
「その代わり、ちょっといい自転車が欲しいんだ。自転車通勤なら健康にもよさそうだと思っていてね」
正継はそう続けた。こんなことを言っている時点で既に目星をつけているようなところがある。
「どうせ目当ては決まってんだろ?」
「はは、お見通しか。そう、もう納車日も決まってる。引っ越しの翌日には届くよ」
「やっぱりな」
涼矢は苦笑した。
「きみがマセラティに乗る気があるならこっちに運ぶよ。BMWは佐江子さんが乗って、軽を処分したらいい」
「ちょっと、勝手に決めないでよ」
佐江子が口を尖らせる。
「でも、乗り心地だって全然違うだろう。安全性の面でもBMWのほうが頑丈で安心だし」
「私は今のが気に入ってるの」
「俺もBMWのままでいいよ。やっと慣れたところだから」
佐江子がふんぞりかえる。
「ほら、そういうもんなのよ。田崎さんは気を利かせたつもりかもしれないけど、人には人の気持ちってものがあるの。先回りして決めちゃわないで」
「決めつけてはいないよ。だから今気持ちを確認した」
「だって田崎さんが言うと決定事項に聞こえる」
「そう聞こえるのは聞く側の問題で、私のせいではないんじゃないのかな」
「その言い方が既に威圧的」
涼矢はため息をつく。
「あ、別に夫婦喧嘩じゃないよ?」
佐江子が取り繕うように言った。
「そんなこと思ってない。二人共ああ言えばこう言うって思っただけ」
涼矢は立ち上がり、飲み干したカップを手にシンクに向かい、食洗機に入れた。
「涼矢こそ。まったく、誰に似たんだか」
そんな言葉には返事をせず、部屋を出ようとする。
「あ、ねえ、それでどうするの。このあと、市役所、行く?」
「どっちでもいい」
「どっちでもいいって、そんな軽々しく……」
「軽々しくても構わないが、私がいられるのは今日明日だからね」
「……じゃあ、行く。一時間後でいい? ちょっと昼寝してくる」
やっぱり眠いんじゃない、という佐江子の声を背に、涼矢は自室へと向かった。
部屋のベッドに横たわると、ついさっきの佐江子の言葉を反芻した。
――人には人の気持ちってものがあるの。先回りして決めちゃわないで。
それでようやく分かった。和樹のあの反応。早々に家に送り届けたのは、自分としては気を使ったつもりだったけれど、和樹には「先回りして決めつけられた」ように感じられたのだろう。もっと言えば、「自分は気を使ったつもり」であることまで分かっていたに違いない。だから責めることはしなかった。
「難しすぎんだろ」
涼矢は呟いた。相手の気持ちを尊重したつもりで踏み込まずにいれば、非情な奴だと悲しませてしまう。よかれと思って気を回せば、勝手に決めつけるなと、やっぱり不機嫌な顔を向けられる。どうしたらいいのか。
市役所に向かうまでの一時間の猶予は、眠いせいでも疲労のせいでもない。一度気持ちをリセットして落ち着きたかったのだ。だが、ただこうしてああだこうだと考えていても落ち着くとも思えない。結局和樹に電話をかけた。
――よ、久しぶり。
いきなり嫌みか、と思ったが、すぐに「どうした?」と優しい声音で尋ねてくる和樹に安堵する。
「今日のうちに役所行って、婚姻届出して、ついでに養子縁組の手続きもすることになった」
――ついででするもんかよ、養子縁組って。
和樹が笑いながら言い、涼矢はますますホッとする。
「なかなかの急展開……でもないか」
――急展開だろ。そっか、もう田崎じゃなくなっちゃうんだな。
「……ああ、まあ、そうだけど。別にいいよ、田崎と呼びたい奴は田崎で」
――識別できれば返事するって?
「うん、そう」
――ま、涼矢であることは変わりないわけだし。
「そりゃあそうだ」
――でも、やっぱちょっと変な感じするな。
「そう?」
――本人のくせにドライすぎ。自分の名前が変わるんだから、もっと、こう、ないの? 淋しいとか。
「周りから深沢って呼ばれるようになったら何か思うかも」
――そっか、まだギリ田崎だもんな。
「うん。まだね」
――でもそれって、結婚した女の人はみんな……や、女性とは限らないけど、まあ大半は女性のほうが苗字変えるわけだろ。その人たちみんな、どんな気分なんだろうな。昨日まで呼ばれてた名前と違う名前で呼ばれんのって。
「複雑かもね。まだ実感ないけど」
――田崎、かあ。
「なんだよ、しみじみ呼ぶなよ」
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