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第979話 揚雲雀 (6)

――だって、この呼び方って、俺らの高校時代と直結してるっしょ。みーんなが和樹、涼矢って呼んでるのに、俺たちだけよそよそしく苗字で呼んじゃったりして。少なくとも部活仲間でおまえを田崎って呼んでたのは俺だけで、なんか、さ。なんか、今となっては特別な名前だったなー、みたいな。 「なんで和樹のほうが感傷に浸ってるんだよ」 ――あー、やべ。ほんとだよ、なんで俺のほうがこんな、娘を嫁に出す父親みたいになっちゃってんだろうな。 「安心しろよ、その嫁ぎ先はおまえなんだから」 ――話をややこしくすんな。  電話越しにお互いに吹き出す。 ――新学期からは深沢の名前でやってくの? 「うーん、そういうことになるのかな。……そっか、学生証も作り直したりすんのか。面倒くさ」 ――ちゃんと覚えておけよ? 「は、何を?」 ――どんな手続きが必要、とかさ。そのうち俺がそれやるかもだろ? 「……そのうち、ね」  今のところは「そのうち」としか言いようがない。でも「いつか」などという不定形の未来ではない。就職したら。司法試験に合格したら。二人で暮らせる目処が経ったら。具体的でいながら確証のない、しかし、そう遠くないはずの未来。 「それを言うなら、親元離れて暮らすのはそっちが先輩なんだから、そのときは頼むよ」 ――んなこと言っても、俺はなんもしてねえもん。転居届を出したぐらいじゃないかな。 「そうなの?」 ――他の手続き的なことはみんな親がかりで、俺はただ言われるがままにしただけ。ガスも水道もいつの間にか通ってたしな。 「そっか」 ――ま、そのときはそのときで、二人でやりゃなんとかなるだろ。 「ん」  なんとかなる根拠は知らないが、和樹がそう言うならそうなのだと思う。 ――で、この電話は今日にも苗字が変わるよっていう報告のため? 「ああ、うん。それもある」 ――それも、ってなんだよ。それより大事な話があるのか? 「大事と言うか。……和樹が機嫌悪くなった理由、分かった気がしたから」 ――機嫌悪くなってねえけど。 「なってただろ、送ってったとき」 ――そうだっけ? 「俺がまたやらかしたからだろ。おまえが疲れてるとか、うちの親のことで振り回したら迷惑だとか、おまえの気持ちも確かめないで決めつけて」 ――へえ。それ、おまえひとりで考えた結論?  少々小馬鹿にしたような口調に涼矢は鼻白むが、元はと言えば自分の蒔いた種だ。 「悪かったよ」 ――答えになってない。 「……俺ひとりで考えたよ。つっても、親父が偉そうに決めつけるのを見て、自分も同じことしたんだなって気がついたんだけど」 ――なるほどね。 「思い込みで動くのは俺の悪い癖だ」 ――ま、でも牛丼のときよりは成長したんじゃないすか。  牛丼、と言われて意味が分からず黙り込んだ。だが、聞き返せば和樹は今度こそ本格的に不機嫌になるのだろう。そのぐらいの予測はついた。 「悪かった」 ――別にそこまで怒ってねえよ。  和樹の声が穏やかな響きに戻るのを耳にして、涼矢は、ふう、と息を吐いた。 「でも、ごめん」 ――明日は、会える? 「うん。……あ、でもどうだろう。親父、明日また出て行くんだよな。札幌に戻るのか東京で準備するんだか知らないけど」 ――知っとけよ、それぐらい。 「引っ越しだって業者任せだし、俺がいてもいなくても関係ないんだ。ただ、そんなんでバタバタするだろうから、落ち着いたら連絡するってことでいい?」 ――ああ、いいよ。俺も別に用事あるわけじゃねえから、合わせる。  そんな緩い約束をして、会話を終えた。  和樹はぼんやりとテレビに目をやった。電話がかかってくる前からつけていたそれは、以前放送されたバラエティ特番の再放送で、途中を見損ねたからと言って何の悔しさもない。隆志と宏樹は仕事に、恵までもがパートに出ていて、家に一人だ。せっかくの帰省なのに、などと家を空けてばかりの自分のことは棚に上げて不貞腐れ、その静寂を紛らわすためだけに流していた番組だ。  やがて夕方になると、インターホンを鳴らすことなく鍵を開ける音がした。恵だろう。和樹が戻ってきているとは知らず、玄関の靴を見てようやく察したようだ。 「なんだ、いたの」  和樹の顔を見て発した恵の第一声は素っ気ないものだったが、それでも和樹が「おかえり」と言うと、嬉しそうに「ただいま」と答えた。かと思うと、一瞬にしてその表情は険しくなる。 「スーツは?」  自分が買ってやったスーツの行方が気になったらしい。自分の部屋着に着替えていた分、まだマシだ、と和樹は思う。涼矢に借りたスウェットのままなら、恵の眉間の皺は更に深くなっていたはずだ。 「クリーニング」 「家で洗えるスーツでしょ、あれ」  その指摘も予想の範疇だった。考えておいた言い訳が口をつく。 「あー、ちょっとワインこぼしちゃって、田崎が気ぃ使ってクリーニングに出してくれた」 「あらやだ、そうなの? クリーニング代は……」 「大丈夫、写真受け取るときに、写真代と一緒に払うから」

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