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第980話 揚雲雀 (7)

「もう、またそんな迷惑かけて……。そう言えば写真のお礼はいくら包めばいいの?」 「聞いておくよ」 「何よ、知らないの?」 「知り合い価格だからそんなにかからないって」 「そういう間柄こそ気を遣うものなの。プロの業者なら最悪お金で解決すればいいかもしれないけど、知り合いだとそういうわけには行かないでしょ」 「大丈夫だって。あいつ、そういうとこはキチッとしてるから」 「そういうとこもどういうとこも、田崎くんがキチッとしてるのは知ってる。和樹がそれに甘えちゃだめって言ってるの」  涼矢の奴、すっかり母さんのお気に入りだな。――和樹はそんなことを思い、複雑な心境になった。嫌われるよりいいのは確かだし、恋人を褒められて悪い気はしない。だが、恵の知っている涼矢は、ほんの一面でしかない。「本当のこと」を知れば涼矢の評価はひっくり返るに違いない。 「はいはい、キチッとするから」  恵は疑わしそうに和樹を見つめてから、観念したように息を吐いた。 「無理しないで、足りないときは言いなさいよ。あちらにご迷惑かけないで」 「分かってるって」 「田崎くんがいいって言ってもだめよ。ちゃんと親御さんにも確認して」 「分かったって」  まだ不安そうな恵だが、それ以上言っても逆効果だと悟ったのか、話題を変えた。なんでも、パート先でバイトリーダーへの昇格の打診があったのだと言う。 「リーダーになったらね、時給が一気に百円も上がるんだって。休日なら百二十円」 「すごい。でも、その分なんか大変になるんじゃないの。他のバイトのシフト組んだり」 「そう、そうなの」恵はよくぞ聞いてくれました、とばかりに目を見開く。「今までシフトは融通利かせてもらえたんだけど、リーダーになったら、土日のどちらかは絶対で、最低でも週四で入らなきゃならないし、ドタキャンする子がいたらピンチヒッターもしなくちゃならないのよ」 「責任重大だ」 「そんなの私には無理だから、一度は断ったんだけど、他にやれる人がいなくて。私だけなのよね、小さい子も介護する人もいないのって。この話も、今までのリーダーさんのお父さんが倒れて介護しなくちゃならなくなって、それで私にお鉢が回ってきちゃって」  親の介護という状況を聞いて、脳裏には小嶋の顔がよぎる。「そっか。そういうの、現場は困るよね」 「でしょう?」いかに大変か、という話をしているのに、何故か恵は嬉しそうだ。「和樹だけよ、そういうの分かってくれるの」 「え?」 「お父さんも宏樹もろくに話を聞いてくれないから。嫌なら辞めればいいよって簡単に言うけど、いくらパートだからって、ねえ」 「……親父は、あれだろ、母さんに無理してほしくないんだろ」 「分かるわよ、でも、そんなに簡単には行かないじゃない。リーダーさんにだって一からお仕事教えてもらって、散々お世話になったんだから」 「兄貴も親父と同じ意見?」 「そう。家のこともあるんだから、できないことはできないってはっきり断れって。でも、考えてみたら私の家事が疎かになったからって、困るのは私じゃなくてお父さんや宏樹のほうよね。私はちっとも困らない。でしょ?」 「や、それは……」  和樹は返事に窮した。たまたま現在の自分は身の回りのことは自分でやっているとは言え、それはやらざるを得ないからやっているだけだ。実家にいたなら、高校生の頃と変わらず、洗濯機を回すこともしなければ自炊することもなかっただろう。恵がパートに出たいと言えば止めはしなかっただろうが、かと言って家事分担を見直すなりして恵の負担を軽減してやろうとも思わなかっただろう。 「でも、母さんが、その、やり甲斐っていうか。仕事そのものが嫌だって言うんじゃないなら、悪い話じゃないと思う、けど」 「そう思う?」恵の顔が明るくなる。「でもなあ、できるかなあ」  もう一声、背中を押してもらいたい。そんな気持ちがありありと伝わってくる。でも、一方では宏樹の言っていることも理解できた。恵自身、自分には言うではないか。学生は勉強が本分。バイトで勉強時間が足りなくって留年なんてしたら本末転倒。うちは父親も兄貴も稼いでいるのだから、お金の心配はせず本分を全うせよ、と。それを言うなら、恵の本分は家庭を支える主婦業ではないのか。 「仕事は楽しい。大変だけどね。失敗ばかりだし、頭ごなしに怒ってくるお客様もいるし、泣きたくなることもよくある。でも、十人にクレームつけられても、一人にありがとうって言われると、辛いことは全部忘れちゃうのよね。お母さん、よその人にそんな風に言われること、なかったから。あ、それにね、お料理のレパートリーは増えたのよ。ファミレスだからって温めるだけだと思ってるでしょ、それがね、意外ときちんと厨房で作ってて」  仕事の話をする恵は、表情だけでなく声も明るい。和樹は、涼矢の家に泊まっていいかと電話をかけた時の恵の声を思い出す。あのときも明るかった。きっと仕事先でいいことがあったのだ。もしかしたらこの昇格の話が出たタイミングだったかもしれない。

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