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第981話 揚雲雀 (8)
「俺は、やったらいいと思う。やりたくない仕事なら無理しなくていいと思うけど、そうじゃないなら。……家のことは、ちゃんとルール決めたらいいんじゃないの。パートの日は夕飯作りは免除、とかさ」
「免除して、誰が作るの」
「コンビニでもデリバリーでもいいだろ」
「もったいない、そんなのにお金かけてたらパート代なんてすぐなくなっちゃうし、栄養バランスだって悪くなる」
「だったら自分の分は自分で作ればいいし、それも嫌なら外食でいい。親父もヒロもこどもじゃないんだからさ。今だって外で食べて帰ってくることぐらい、あるだろ」
佐江子の話によれば宏樹はアリスの店にも結構な頻度で行っていたらしい。今はダイエットで控えてるようだが、それなら尚更自分でダイエットメニューでも勉強すればいい、と和樹は思う。
「そんな、バラバラだなんて……家族なのに変よ」
「変じゃないよ。田崎ん家だって、親は仕事でいないことが多くて、あいつがこどもの頃からバラバラだったってよ。でも、ちゃんと家族だし」
「弁護士さんと私のパートじゃ違うでしょ」
「違わないって。つか、世間がどうでも、その家族がそれでいいと思えばそれでいいんじゃないの」
「……なんかドライな考え方ね。それが今時なのかな」
「いや、そんな」言いかけて、和樹は黙った。ここから先を話し出したら、きっと涼矢の家のやり方を恵に押しつけてしまう。恵はそれを批判と受け止めるだろう。恵にそんな思いをさせるのは本意ではない。「とにかく俺が言いたいのは、母さん一人が家のことも仕事も、って背負う必要ないってこと。母さんが言いにくいなら、ヒロには俺から言っておくよ。ちゃんと話し合えって」
「ありがと。……お父さんには?」
「親父かぁ」
悪気なく涼矢を傷つける父親に対しては、和樹は半ば仕方がないと思い、もう半分では情けなく、歯がゆくも思っている。無意識に涼矢に浴びせた言葉だっていまだに根に持っている。しかし、五十年以上もそうやって生きてきた中年男の価値観を、今更変えろと言っても無理があるのは想像に難くない。小嶋の母親の葬儀の際に、久家や小嶋に向けられていた侮蔑と嘲笑がその証だ。あれが「世間」ってものだし、隆志はその只中にいて、それが世界のすべてだと思っている。恵のことにしてもそうだ。妻がパート仕事に感じるやり甲斐など、取るに足らない趣味の領域だと思っていることだろう。
「お父さん、いい人なんだけどね。ちょっと、頭が古いのね」
恵はそう言って苦笑した。――なんだ、母さんも父さんのそういうとこ、分かってるのか。
「とりあえず俺は母さんの応援するし。やれるとこまでやったらいいと思うよ」
恵はさっきの苦笑とは打って変わって、心から嬉しそうな笑顔で和樹を見た。
「和樹、変わったね」
「そう? どんな風に?」
「うーん。逞しくなった……とはちょっと違うか。しっかりした。宏樹もしっかりしてるけど、こういう話はあの子にしづらいのよね。なんでかな」
「その意味ではヒロは親父寄りかもな。頭固いっつうか」
「ああ、それだ」恵は笑った。「いい子なんだけどね」
恵とこんな会話をしたことはなかった。「いい子なんだけど」というフォローは、いつだって宏樹の優秀さと比較された挙げ句に、ため息交じりに自分に向けられていたものだ。母親からだけじゃない。宏樹のことを知っている親戚、教師、友達の親、近所の人。――和樹くんは、いい子はいい子なんだけど、宏樹くんのときはもっと、ねえ? 優秀な兄に、期待外れの弟。かといって規格外の個性があるわけでもない。可もなく不可もない、至って「普通」。そういう含みを持った「いい子なんだけど」は、決して褒め言葉ではなく、言われて嬉しいはずもなかった。――その凡庸さを、涼矢が愛してくれるまでは。いくら「普通」に焦がれてもついぞ「普通」になれなかったのだ、と涼矢は言った。「普通」が分からず原点を見失いがちの自分にとって、だから和樹こそが指標なのだと。
「保守的なんだよ。正論しか返ってこない。でも、正解ってひとつじゃなかったりするし、後悔するって分かってても、どうしてもやりたいこともあるだろ?」
「うんうん。……にしても、和樹もいっぱしのこと言うようになったわね。宏樹も一人暮らしさせたらもう少し視野が広がるのかなあ」
「あ、それはだめ」
「なんで?」
「俺の仕送り減るだろ」
「やだ、やっぱり変わってないわ。ちゃっかりして」
「弟だからね」
「ほーんと、それ。明も要領よくてね。下の子は得よね、上の失敗を見てるから」
久しぶりに聞く叔父の名前だった。
「明叔父さんは相変わらず?」
「相変わらずみたいよ。例のコブ付きおばさんと」
「そんな言い方」
「まあ、好きにすればいいわ。いい年した大人なんだから」
「そうだよ、好きにすりゃいいんだ。母さんもね」
「……そうね」
「それと、兄貴は大丈夫だよ」
「え?」
「前に言ってた。教師って学校卒業してすぐ学校が職場になるから、学校という社会しか知らない。けど、生徒は学校以外の世界に進む子のほうがずっと多いし、保護者もそう。自分は限られた世界しか知らないってこと、気にしてた。気にしてるってことは、知ろうとしてるわけだろ? だから、大丈夫だと思う。母さんの気持ちも、話せば分かると思う」
恵は一瞬驚いたあと、「そう、ね」と目を細めた。
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