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第203話 Prayer(2)
喫茶店は半分以上埋まっていたが、2人掛けのテーブル席が1卓空いていたので、そこに座った。
「トーストセット。ブレンドで。」と和樹が言い、涼矢はサンドイッチセットをオーダーした。マスターはにっこりといつもの微笑みでそれに応えた。和樹はマスターに後日談を聞きたいものの、忙しそうな店内の様子に思いとどまった。だが、一瞬無意識に他の客を見渡したことで、マスターはそれを察したらしい。
「我が息子は、無事に涼矢という素晴らしい名前になりました。その節はありがとうございました。」マスターは軽く頭を下げた。続いて「まだ退院はできてないんですが、NICUから普通の新生児室に移れました。順調です。」と付け加えた。
「良かったです。」と和樹が言い、涼矢も同感だという風にうなずいた。マスターはそれにも軽く一礼して、その場を下がった。和樹はマスターがカウンターの内側に入るところまで見届けると、小声で涼矢に尋ねる。「NICUって、なんだっけ。」
「ICUは分かるだろ? 赤ちゃん用のそれだよ。超未熟児とか、障害がある子は感染に弱いし、呼吸や体温調節がうまくできなかったりするから、専用の保育器の中で管理されるの。」
「さすが立ち会い経験のある人は詳しいな。大変だったんだな、マスターの赤ちゃん。」
「俺もNICU卒業生なんで。」
「覚えてるの?」
「んなわけねえだろ。普通ならまだ母親の腹ん中にいるんだよ。」そこまで言って、涼矢はハッとする。「おまえは、あるんだよな、お腹の中の記憶。」以前聞いたことがある。和樹には胎内記憶があるということを。
「うん。ぼんやりとね。」
「普通はないよな? 俺がNICUの保育器入ってたせいじゃなくて。」
「ないんじゃない? 俺はみんなあるんだと思ってたけど、こどもの頃に読んだ本に『世の中には胎内記憶を持っている人もいます』ってわざわざ書いてあってさ、それで、みんなが持ってるわけじゃないんだって知った。」
「へえ。なんか不思議。肺呼吸していない頃の自分の記憶なんて。」
「肺呼吸って。そこかよ。」
その時、マスターが注文の品を持ってやってきた。「お待たせしました。」一通りのものをテーブルに置くと、涼矢のほうをチラリと見た。「そろそろ、地元に帰るんだっけ。」久々に砕けた口調だ。
「ええ、明日の早い時間に。だから、今回は、今日が最後。」
「ああ、それは。そんな日に来てくれてありがとう。息子を見せてあげられたらよかったんだけどね。」
涼矢がどう答えればいいのか、とっさの言葉が出てこないでいると、和樹が言った。「写真はないんですか?」
「あるけど、保育器の中でね、管いっぱいついてて。私はそれでも可愛いと思うけど、見る人が見たら少しギョッとしちゃうかな。今日はもう外れているはずだけど。」
「管だらけだって可愛いですよ、きっと。……あ、でも。」和樹は周囲の人に聞こえないように声を落としてから聞いた。「病院は近く? 病院に行ったらだめですか?」
涼矢は驚いて和樹を見た。マスターも少々戸惑っている。「新宿だけど……。わざわざ、そんな。」
「俺らみたいなのが行ったら変かな。」
「それより、奥さんが嫌だろう。見知らぬ大学生がいきなり押しかけたら。」
「妻は客商売も長いから、そういう点は平気だと思います。でも、逆に、君たちからしたら、知らないおばさんと赤ん坊でしょう?」
和樹がそれに答えようとした時に、他のテーブルから声がかかり、「失礼」と言ってマスターはその場を離れた。
残された2人は特に会話をせず、トーストとサンドイッチを口に運び始めた。2個目かのサンドイッチに手を伸ばした時、涼矢が口を開いた。「ひとつ、食う?」
「いや、大丈夫。」
「そう。」涼矢はあっさりと引き下がるが、手にしたサンドイッチをまた皿に戻した。「あのさ、マスターがいいって言うなら、赤ちゃん見に行くのはいいけど、手ぶらじゃ行けないよ?」
「え?」和樹は涼矢が何を言い出したのか理解できず、きょとんとした。
「お祝いの品ぐらい持って行くのが礼儀だろう。」
「あ、そうか。そういうもんか。学生だし、お客さんだからナシってのはだめ?」和樹は若干へらへらした笑いを浮かべた。
「だったら行くな。」涼矢はピシャリと言い、怒っているのか、勢いよくサンドイッチを口に入れると、ほんの2口で食べた。和樹は居心地悪そうに上目遣いで涼矢を見ながらコーヒーを飲む。今日は食後でなく、食事と一緒に持ってきてもらった。お祝いの品か。そういうのっていくらぐらいが相場なんだろう。もし何千円という話なら、もうそんな金はない。それを涼矢に言うべきだろうか。こんな機嫌悪そうな涼矢に。和樹はもそもそとトーストをかじる。
「金、ねんだろ?」涼矢があっさり言った。
「え……。」
「だったら、ちゃんと頼めよ。お金持ちの涼矢くんに。」
「やだよ。」和樹はまたコーヒーを飲む。
「また、あの変なプライド?」
「変なって言うな。」
「まあ、冗談はともかく、いいよ、出すよ。俺がいろんなもん買ったせいだし。」
「でも。」
「じゃないと、俺は涼矢ジュニアに会えないだろ? 会わせない気か?」
「おまえの息子みたく言うな。」
「こどもなんて一生持てないと思ったのにねえ……。」
「遠い目をするな。」和樹は吹き出す。笑いをいったん引き締めてから、涼矢に頭を下げた。「すみません。お祝い代、お願いします。」
「そう、素直でよろしい。なんならここの会計も全額出すけど?」
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