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第204話 Prayer(3)

「えっと、そこは、あの、この後の食事をどうするかによります。正直、使える金が、あと3,000円ちょっとです。ここで1,000円近く使って、チョコとアイス買うと、もう外食は厳しいかなっていう。」 「明日以降のメシはどうすんの。」 「あ、それは、大丈夫。」 「どうして大丈夫なの。」 「だいたい10日前後に仕送りが入るから、それまでの1週間を乗り越えればなんとかなる。その分は確保してある。」 「1週間、いくらで暮らすつもり?」 「え、それ聞く?」 「聞くよ、嫁だもの。」 「嫁ってそういうもんなの?」 「そうだよ。」断言する涼矢に言い返せる和樹ではなかった。 「い、1日500円以内に収めれば、イケるかな、と……。」 「馬鹿か。」 「あのね、涼矢には分かんないかもしれないけど、そのぐらいでやってる奴なんかたくさんいるっての。貧しくても一生懸命生きてるの。」 「親に仕送りしてもらった金で暮らしておいて、何が貧しくても、だ。そういうセリフは自分で稼いでから言え。」涼矢は淡々とそう言うと、最後にふう、と息を吐いた。「なんてことを言える立場では全然ないので、俺は俺に出来ることをしようと思う。」 「えっと、それは、どういう。」 「だから、今日使う分ぐらいは全部俺が出すから。おまえはまともなメシを食え。」 「でも、今日、甘やかしデーなのに。」 「俺が金で払った分、おまえは体で俺を甘やかせ。奉仕しろ。」 「でっ。」和樹は得も言われぬ声を上げる。 「うん、待てよ?」涼矢は中空を見て考える。「てことは、俺が使えば使うほど、その額に応じた肉体的サービスが和樹から受けられるのか。」 「勝手に話を進めるな。」 「夕食には銀座に寿司でも食べに行こうか? それともフレンチのフルコース?」涼矢はニヤニヤと和樹を眺めた。 「やめてくれ。」  気がつくとお客が半減していて、少し店内が落ち着いたようだ。マスターが戻ってきて、空いた皿を下げ始めた。 「あの、さっきの話。」和樹が話しかけた。「いいですか、行っても?」 「本当に会いに行ってくれるの? 私はちょっと、ここがあるから、お連れできないけれど。」マスターが微笑む。 「迷惑でなければ。」 「迷惑じゃないですよ、もちろん。ありがとう。妻も息子も喜びます。ちょっと、待っててくださいね。これ、片付けるから。」 「すみません、忙しい時に。」  いやいや、という風に軽く首を振り、またマスターは去ったが、すぐに戻ってきて、三つ折りになったパンフレットを差し出してきた。病院案内らしい。「この病院で、行き方はここに書いてあるから。あと、妻がいる部屋はここ、これが妻の名前。」パンフレットの余白に、病室番号らしき数字と、名前が手書きで記されていた。「涼矢スペシャル」のレシピのメモを見た時にも感じたが、マスターの右肩上がりの若干神経質な筆跡は、自分のそれに似ている、と涼矢は思った。おそらく和樹も。 「磯貝夏鈴(いそがい かりん)さん。きれいな名前。」涼矢が呟くように言った。 「そう、妻は夏生まれなんでね。ちなみに私もです。タモツなんていう、夏とは関係ない名前だけど。」 「で、磯貝涼矢くんも夏。」和樹が言う。「この涼矢も夏生まれだな。」和樹は涼矢を指して言った。 「そう、せめて名前だけでも涼しげにっていう。」涼矢は笑う。 「矢にも意味あんのかな。」和樹が言った。 「小学校の時、名前の由来の作文書かなかった?」 「書いた書いた。」 「その時、おふくろに聞いたら、常にものごとの芯を目指して進むようにと思って、だって。矢って、的のね、真ん中を射抜くものだから。」 「カッコいいな。」 「どうだかね、俺は嘘だと睨んでる。だって別の時に親父に聞いたら、おふくろが矢沢永吉のファンだからって言ってて、こっちのほうが本当だと思う。」そこまで言って、涼矢は気まずそうな表情に変わり、マスターを見上げた。  マスターがにっこりと笑った。「どちらにしても良い名前ですよ。私、長年の永ちゃんファンですから。」 「それなら良かった。」涼矢はホッと胸を撫で下ろした。佐江子でさえ"永ちゃん"ファンの中では若い層に入る世代だ。もちろん涼矢自身は特段のファンではない。もともとクラシックと洋楽ばかり聴いていて、"永ちゃん"の音楽はおろか、日本のポップスもロックもまともに聴いたことがなかった。高校に入ってから、「若者に人気の」の冠がつくタイプのバンドなら多少は聴くようになった。和樹がその手の音楽を好むと知ったからだ。バスケ漫画と同じ動機だった。  会計を済ませて店を出る時、マスターは「変なことを言うようだけど、何も気遣いしないでいいですからね。手ぶらで。」と言った。「涼矢ですと名乗ってくれれば、分かると思うから。」 「はい。」涼矢は微笑んでそう言った。そう言いながら、ちゃんと祝いの品は用意するつもりなんだろう。和樹は涼矢に社交的だと評価されていることが恥ずかしくなった。自分は人見知りせずに誰とでもしゃべれるというだけで、大人のつきあいという意味での社交スキルは、涼矢のほうがずっと高そうだ。

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