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第206話 Prayer(5)

「お菓子は、あんまり作らないです。分量とか温度とか、シビアで難しいし。適当に、目分量で作るような、ざっくりした料理だけです、俺が作るのは。」うつむいたまま、ぼそぼそと話した。 「目分量でざっくり作れるほうが料理上手なのよ。」 「いや……。」涼矢は照れつつ顔を上げた。前かがみに椅子に腰かけていて、そうやって顔を上げると、ちょうど赤ん坊の顔の高さだ。目も開いていない赤ん坊と目が合った気がした。 「抱っこ、してみる?」夏鈴が言った。 「えっ。」 「弟や妹はいない?」 「いないです、一人っ子で。」 「そっか、赤ちゃんって慣れてないと怖いよね。でも大丈夫よ、下から私が支えるから。」涼矢は無言で立ち上がる。夏鈴がそっと赤ん坊を涼矢に抱かせる。「まだ首が座ってないから、ここをしっかり支えて。そう、そうすると安定するから。ね。」夏鈴は小声で優しく語りかける。耳に心地良い声だ。この声を聞いて育つ子は幸せだろうと思う。 「なんか……ふわふわ。」涼矢は腕の中の赤ん坊が思った以上に小さく頼りないことに動揺する。それでいて、体温は熱くて、強い生命力が伝わってくる。赤ん坊ってエネルギーの塊だ、と思う。 「ダブル涼矢だな。写真撮っていい?」和樹は返事を聞く前に写真を撮った。 「こら、驚かせるな、危ないだろ。」  涼矢の非難を無視して和樹は赤ん坊に近づく。「すごい、おとなしいね。赤ちゃんってもっとギャン泣きするのかと思った。」 「泣く時はすごいわよ。こんなにちっちゃいくせにね。」 「そうなんだ。」和樹が指先で赤ん坊の手をくすぐるように触れると、小さな手がその指を握った。「わ、握った。」 「和樹くんも抱っこしてくれる?」 「怖いな。落としそう。」  涼矢は夏鈴に赤ん坊を返し、和樹に場所を譲った。夏鈴は「大丈夫よ。」と言いながら、涼矢と同じように和樹に赤ん坊を抱かせた。 「うわ、軽っ。」おっかなびっくり抱っこする。「すげ、可愛い。一日中見てられますね。」にこにこと和樹が言う。 「ええ、本当に、一日一緒にいたいわ。本当はこの病院、朝8時から夕方6時までが母子同室なんだけど、この子はNICUから出てきたばかりだし、私もこんなだから、今は3、4時間しか一緒にいられないの。」夏鈴は自分の点滴を見上げた。点滴のチューブは彼女の左腕につながっている。 「これは、何の薬? 具合悪いんですか?」和樹が尋ねた。 「帝王切開だったんだけど、そのせいか、子宮の戻りが悪かったり貧血がひどかったりしたものだから、子宮収縮剤とか鉄剤とか、あと何だったかしら。いろいろあって分からなくなっちゃった。……あ、男の子に話すような話じゃないわね、ごめんなさい。情けないわね、まったく。自然に生んであげられなかったし、生んだ後もこんなで。」夏鈴は淋しそうに笑った。 「情けないなんてことないですよ。」涼矢が言った。「自分の健康のためじゃなくて、お腹を切るのは出産する母親だけだって。自然分娩でも帝王切開でも、どっちもすごいことだって……母が。」  夏鈴は目を丸くして涼矢を見た。何に対して驚いたのか、その表情からは読み取れない。涼矢は慌てて「すみません、なんか、生意気っていうか、余計なこと言って。」と言った。 「いえ……いいえ。」夏鈴はかすかに首を左右に振る。その後に微笑みが浮かんだ。「ありがとう。」それから和樹の腕の中の小さな涼矢を見た。「あなたの名前にして良かった。」と呟いた。  涼矢は無言だ。夏鈴はどこまで承知の上で、その名前をつけたのだろう。 「私、生んだのは初めてだけど、妊娠は初めてじゃないの。」夏鈴が急に、だが静かに、語りだした。「若い時、今のあなたたちと同じぐらいの頃のことよ。私、育ってきた家庭環境があまり良くなくてね。恥ずかしながら、若い頃はとても荒れた生活をしていて、愛人みたいなこともやってた。ある時、妊娠して……当たり前のように堕胎した。」夏鈴は小さな涼矢の頬にそっと手を触れた。「何も感じなかった。何か感じたとしたら、面倒なことになったとか、運が悪いとか、そんなことよ。その後もいろいろあって、30歳も過ぎてからやっと少しはまともになって、主人と出会って、好きになって、結婚して。生まれて初めて思った、この人とのこどもが欲しいって。でも、できなかった。」夏鈴は手を赤ん坊から離して、涼矢を見た。「何をしても妊娠できなくて、辛くて。……バチが当たったんだと思ったわ。昔、自分がしたことの。離婚覚悟で、主人に本当のことを話した。彼は、許してくれた。こどもがいなくても2人で生きていければいいって言ってくれた。」再び和樹の腕の中を見る。「そんな時に、この子を授かった。主人のおかげでやっと許されたんだと思って嬉しくて、彼にもそう言ったの。でも、それは違うよって。こどもが、何かの罰だったり、何かのごほうびだったりすることはないって言われた。ただ、新しい命がやってきて、私たちは、それを愛すればいいんだよって。」

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