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第986話  nick of time (5)

「どうでもいいかどうかは自分次第だと思うよ」ミナミが言った。「私も世間的には無名の大学だけど、やりたかったことできてるし、よかったなーって思ってる」 「言ってることは分かるけど、きれいごとって気がしちゃうよね。どうせこの先、就職先だって大学のランクで変わってくるだろ?」 「そうだよ、だから留学したり資格取ったりしてるんじゃない。宮野も少しは努力しなよ。文句ばっかり言ってないで」 「努力してるって。でも、それだけじゃ超えられない壁ってのがあるわけよ。なあ?」  宮野は和樹と矢島に同意を求めるが、二人共明確な答えは避けた。それが気に入らないのか、宮野が和樹に問いただした。 「じゃあ、いったいどれだけの努力をしてんのよ」 「俺は、一応、教職取ってて」和樹は言葉を選びつつ語り出す。宮野にうっかり話して決定事項のように吹聴されては困る。「確定してないけど、そっち方面も考えてる。あ、一般企業に行く確率のほうが高いけどね」 「教職か。そんなのぜんっぜん頭になかったわ、俺。余計に単位取らなきゃなんねえし」 「何の先生? 体育?」  ミナミが無邪気に聞いてくる。宏樹も職業を言うと体育教師だと勘違いされることが多かったが、自分も言われるとは思っていなかった。 「社会の先生、だよ」 「そうなんだあ」  奏多は何科だっただろうか、と和樹は思いを馳せた。カオリ先生は小学校の先生を目指してると言ってたっけな。  そこから先は互いの大学生活が話題の中心となった。そんな雑談になれば宮野も案外楽しそうに語る。さっきの自虐めいた愚痴は、大げさに言うことでミナミの同情でも買いたかっただけで、現実的にはそこまでの不満を抱えているわけでもないのだろう。和樹はそんなことを考えながらビールを飲み、一時間ほど経っただろうか、尿意を催した。トイレ、と矢島に声をかけ、ついでに彼の肩に手を置いて、その勢いで立ち上がる。座敷を出てキョロキョロすると、すぐにトイレのマークのついたドアは見つかった。そちらへ向かおうと一歩踏み出した途端に背後から柳瀬の声がした。 「あ、今、トイレ使用中。マキが気持ち悪いっつって、立てこもってるんだ。一階にもトイレあるから、そっち使って」 「了解」  柳瀬のバイト先のこの店には初めて来たが、随分と年季の入った店のようだ。廊下も階段もギシギシ言う。二階は畳敷きの広間で、柳瀬が説明していた通り、通常は宴会に使われるらしい。来たときチラリと見えた一階はテーブル席がいくつかあるようだった。階下に降りて再び辺りを見回しトイレを発見する。  こちらのトイレは、そこだけ改修したようで不自然に真新しい。個室も複数あり、二階のように他の客とバッティングする心配はなさそうだ。そう思った矢先に、ドアのひとつが開いた。 「失礼」  そう言いながら和樹の脇を通り抜けようとした先客の、ハンカチで手を拭く動作がはたと止まった。 「あれ? えっと……都倉くん、だっけ」  和樹は反射的に会釈した。挨拶の言葉を返そうとして言葉に詰まる。相手が誰かを思い出せなかったわけではない。忘れようにも忘れられない相手だ。 「だから田舎は嫌なんだよね。ちょっと人が集まるところに行くと、すぐ知り合いに会う」  苦笑いして、男はハンカチをしまった。 「ご無沙汰してます。……香椎先輩」 「覚えててくれたんだ」  更にその直後に、またも背後から階段を降りてくる足音がして、降りきらぬうちに声がした。 「おい、和樹、おまえ(ケツ)のポケットにスマホ入れてただろ。落ちてたって矢島が」  そこで息を呑む気配がした。階段をあと一段残したまま、固まったのは涼矢だ。 「あーあ、ほらね、これだもん。なに、二人で来たの?」 「いえ、ミニ同窓会っていうか。そんな感じのやってて」 「そっか、上は宴会場だもんね、ここ」 「この店、よく来るんですか」  そう質問して、馬鹿なことを言ったとすぐに後悔した。香椎文彦は、和樹と同じく東京暮らしだ。彼氏と同棲していて、地元にはめったに帰らないようなことを言っていた。あんな田舎で、本当のことなど言えやしない、とも。 「母親がもう年でね、倒れたって聞いたから。でも、ただの口実だったみたい。ピンピンしてて参ったよ。……で、早速逃げ出して飲んでるところ」 「一人で?」 「いや」否定しつつも正解は教えてくれない。「ああ、そうだ、トイレだよね。ごめん、どうぞ」  この場を立ち去ったら、涼矢と香椎、二人だけ残すことになる。当然、気は進まない。 ――かつて涼矢が好きだった人。かつて涼矢を好きだった人。そうと知っていながら先に進めなかった二人。あの頃は中学生で何もできなかったのだ。けれど、今、二人の時計が動き出したら。  それでも和樹は「それじゃすみません」と言い、トイレに向かった。個室の内側から鍵を掛けてから、涼矢が届けに来たスマホを受け取りそびれていることに気づいた。 ――それを口実に涼矢は俺を待つだろう。待っている間に、あの人と何を話すのだろうか。

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