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第987話  nick of time (6)

 今更何も起きないと信じてはいる。今の二人にとっては、ただの甘酸っぱい思い出のはずだ。そう思っては、打ち消す自分も顔を出す。「ただの」「甘酸っぱい」思い出であるはずがない。涼矢のあの人への想いは、まだ中学生だった涼矢に死を覚悟させるほどのものだったのだ。甘酸っぱいどころか、(おり)のように心の奥底に沈む、苦々しい記憶ではないのか。  だからこそ、その苦い経験を乗り越えてきた彼ら二人に、時間を与えたい気持ちもある。当時は無理でも、今の彼らなら消化できるかもしれない。互いの現在の無事を認め合って、過去の苦しみがあったからこそだと、エールを送り合えるかもしれない。  とっくに用を済ませた和樹は個室で悶々とするが、いつまでもそうしているわけにも行かない。やがて意を決してトイレを出た。  果たして、香椎と涼矢はまだそこにいた。トイレ待ちの客に間違われないためだろう、階段下に移動しているが。 「大きくなってて、びっくりした」この状況で第一声を発したのは香椎だった。「……なんて、親戚のおばさんみたいだね」  香椎が柔和な笑みを浮かべる。和樹に、何の心配も要らないと言い聞かせているようにも思える。 「ん」  涼矢は香椎の言葉には反応せずスマホをつきだした。和樹はそれを受け取る。 「僕らは向こうのテーブルで飲んでるんだけど、来ない?」 「えっ」  聞き返したのは和樹だ。 「彼氏と来てるんだ。母の容態がいよいよ悪いなら本当に最期のチャンスだと思って、悩んだ末にこっちまで連れてきたってのに仮病で、会うどころじゃなくなって。振り回したお詫びにごちそうしてるところでね」 「結局、お母さんと彼氏さんは会ってないんですか?」 「うん」 「……彼氏がいる、ってことは……?」 「それも、まだ。つきあってる人がいるのは察してる風だけど、男だとはさすがに思ってないよ」 「そうなんですか」 「同類で飲んだほうが気兼ねなくしゃべれるでしょ。だから」 「いえ、大丈夫です」  断ったのは涼矢だった。 「……高校の同窓会って言ったっけ? 仲良いんだね。僕、そんなの一度も出たことないや」 「好奇の目で見られるから?」  涼矢の歯に衣着せぬ言い方に和樹のほうがハラハラする。 「いやあ、誰にも言ってないから、そんなことはないけど。でも、ヘラヘラ笑って嘘ついて、周りに合わせてしゃべるのも疲れるだけだから」 「俺らは、大丈夫なんで」涼矢は再度、大丈夫、と言う。「もうみんな知ってるし」 「え? ああ、そう言えばカムア済みなのか。……すごいね。僕には無理だけど」 「俺らだって言いたくて言ったわけじゃないですよ。ものの弾みで口が滑っただけで。滑らせたのはこいつだけど」  和樹を指差す涼矢を見て、香椎は笑った。 「そっか。うん、まあ、いいんじゃない。それぞれのタイミングってのがあるからね」 「俺もそう思います」 「……ちょっと羨ましいけどさ」香椎は呟く。「こっちはこっちのペースでやるよ」  涼矢は無言で、でも笑顔で頷く。どこか吹っ切れた表情だ。 「じゃ、約束したりはしないけど、またどこかで偶然会うようなことがあったら、お茶ぐらいはつきあってね」 「……はい」  香椎は背を向け、歩き出した。片足を引きずり気味のせいで、そちら側の肩が大きく揺れる。 ――あの人の、歩き方だ。  その瞬間、涼矢は中学時代に引き戻される。だが、学年が違い教室の階も違う香椎が歩く姿を見ることは、そんなになかった。涼矢が幾度となく見たのは、美術室の一角で、椅子に腰かけてキャンバスを前にしている姿だ。あの背中に抱きつきたかった。髪に顔を埋めたかった。 ――でも、もういい。できなかったことを後悔もしていない。  あの日、指一本触れることができなかったから、今、和樹に触れ、思い切り抱き締めることができるのだ。 「行こ」  涼矢は短くそう言って階段を上り始めた。その後を追い、階段がギシギシ軋む音を聞きながら、ああ、あのときの居酒屋に似てる、と和樹は思い出す。学園祭の打ち上げで使った居酒屋もこんな風に二階が広間になっていて、そこで和樹はOBの若林と出会い、引いては香椎に引き合わされたのだ。 「二人でどこまで行ってたの」  部屋に入るなり、いちばん手前にいたカノンが言った。また席替えがあったようで、さっき自分がいた席には別の人間が居座っている。成り行きで二人はカノンのテーブルについた。 「便所」  涼矢がぶっきらぼうに言った。 「酔っ払いばっかりでつまんなくなっちゃった」  対抗するかのように、カノンも吐き捨てるように言う。 「カノンもウーロン茶なんだっけ」 「さっきカクテル飲んだ。ノンアルの」 「あ、そんなのもあるんだ」 「頼む?」 「んー。俺はいいや」  ノンアルコールのカクテルなら、アリスの店で飲んだ。ああいった、それなりにきちんとしたバーテンダーが作ってくれるならいざ知らず、そうでないなら飲む気になれない。飲みかけのウーロン茶は既に片付けられてしまったのか見当たらなくて、新たに注文した。「俺の分も」と和樹が言うので、涼矢は「じゃあ二つで」と付け足した。

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