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第988話  nick of time (7)

「和樹、飲まなくていいのか? 飲み放題だろ?」 「悪いだろ、俺ばっかり飲んだら」 「いいよ、別に」 「トラウマがあるからな。俺はああいうみっともない酔っ払いになりたくねえっつう」 「……そうですか」  和樹の皮肉に少しだけムッとしたあと、無意識に「みっともない酔っ払い仲間」であるエミリを探した。だが、彼女もまた見当たらない。 「エミリは?」 「ここ」  カノンが背後を振り返り呆れた視線を投げた先には、壁際で寝ているエミリの姿があった。またか、と涼矢は思い、それと同時に和樹が言った。 「エミリの奴、またスランプなのか?」 「スランプ? それ、去年の話でしょ」 「そ、去年の夏。スランプだからって大して飲めないくせに飲んで、絡むわ泣くわで大変だったんだ。かと思ったらああやって寝ちゃってさ」 「和樹も一緒にいたの?」 「ああ。俺の部屋で飲んでたの。あ、もちろん二人きりじゃないよ、涼矢(こいつ)もいたからな?」 「まったく、しょうがないね、エミリったら」苦笑するカノンが、掛け布団の代わりのつもりか、横たわるエミリに掛けられたコートがズレているのを直した。「でも、私には教えてくれなかったなあ、そういうの」 「そういうのって?」 「エミリ、私には調子いいときしか連絡くれないから。スランプなのは結果見てれば察してたけど、そんな風に荒れてたのは知らなかった」 「そうなんだ? まあ、弱ってるとこ見せたくないってのは、分からなくもねえな」  自分と重ねて、和樹は言う。涼矢にだけは弱音を吐きたくないと思ってしまう。エミリとカノンも、かつては水泳部で切磋琢磨していた仲間だ。とは言ってもエミリは飛び抜けて泳力があったから、和樹と涼矢ほどには競り合っていたわけではないが、だからこその複雑なライバル心はあったかもしれない。いちばんの親友でありつつ、超えられない壁として立ちはだかっていた相手。そして今では、自分はとうに降りた舞台で現在進行形で戦い続けているエミリを、カノンはどう思っているのだろう。 「カノンだって立場が違ったら同じようにしたんじゃない?」  和樹の言葉にカノンは淋しげに笑う。「どうだろう? 昔は……一緒に高校行ってたときなら、そうかもね。でも、今は、エミリはずーっと先にいるっていうか。今のエミリが抱えてるプレッシャーなんか想像もできないし、エミリも私に愚痴ったってしょうがないって思ってるんだよ、きっと」 「そんなことはないだろ」 「あるよ。……まあでも、和樹が近くにいてくれてよかった。エミリが本音言える相手がいて」  和樹はうまい返しが思いつかず口籠もってしまう。そして、そういう自分に戸惑った。前はもっと、気軽に会話していた気がする。カノンだってエミリだって、そういう和樹に突っ込みを入れては笑った。互いにそんな応酬を繰り返して、どんなくだらない話題でも盛り上がった。あの頃はそれができた。今はできない。和樹だけではない。カノンにしてもこんな風に真正面から和樹を褒めたりはしなかった。「あの頃」と「今」は違うのだと思い知らされる。 「ギリギリまで一人で頑張るからなぁ、エミリは」 「そうそう。それで解決するならいいけど、結局溜め込んで爆発しちゃうんだから。そうやって悪酔いしたりね。和樹もいい迷惑よね? せっかく愛しの彼氏が遠くから来てるときに、ね?」  カノンはニヤリと笑う。 「そこはノーコメントで」 「なんでよ」 「……エミリのおかげで救われてるとこもあるからな、実際」  大学で新しく構築した友人には涼矢のことを言い出せなかった。それが少し苦しかった。そんなときに、必要なら自分をカムフラージュに使えと言ってくれた。何があっても味方になると言ってくれた。明生の心を開く助けにもなってくれた。 「そうなの?」カノンは黙ったままの涼矢を一瞥し、また和樹を見る。「私、正直分かんないよ。エミリと、あんたたちの関係」 「友達だろ、普通に」 「そりゃあエミリはそう言ってたけど、そんな風になれるもの? だいたい、いちばん理解不能なのは和樹だよ。エミリと涼矢の間であんなことあったのに、よく平気で三人仲良くしていられるなあって」 「エミリが一時期涼矢(こいつ)のことが好きだったってだけだろ? それはもう決着ついた話だし、エミリだってとっくに次の相手見つけてるんだからさ」  カノンは何か言いたそうに和樹を見るが、結局、ふうん、と不服そうに呟いただけだった。和樹は横たわるエミリに視線を移動する。なんとなくエミリに聞かせたくない会話だと思ったからだ。エミリは口を半開きにしてだらしない寝顔を晒していた。これなら狸寝入りではないだろうが、今度は宮野やら別の誰かにこの寝顔を見られるのはかわいそうだという気になり、さりげなく場所を移動して、カノンの隣に座り直した。二人並んでいればエミリの寝姿も隠れるだろうという算段だ。  涼矢とは真正面の席になる。和樹の突然の移席動に不安を隠せない様子の涼矢と目が合い、和樹は笑いそうになった。

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