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第223話 夢で逢えたら(15)
「ああ。じゃ、行くわ。」去り際に和樹の頬を手の甲でそっと撫でて、涼矢は車内に消えて行った。残念ながら席はホームとは反対側で、窓越しに顔を合わせることもままならない。発車ベルが鳴ると、それでもガラス窓と手前の乗客を超えて、更にその向こう側から、涼矢が手を振るのが見えた。ついでに隣の哲までもが手を振ってきた。心の中では涼矢にだけ振り返す気持ちで、手をひらひらと動かした。
あの日。
俺が上京した日。
涼矢が見送る側だった。あの時、あいつはどんな気持ちで、こんな風にあっという間に小さくなっていく車両を見ていたんだろう。
俺の隣には兄貴がいて、手にはあいつがくれた絵があって、向かう先には新しい生活が待っていた。淋しかったけれど、それを紛らわせるものがあった。
和樹はきびすを返して、元来た改札口を出た。在来線の乗り場へと向かう。どこもかしこも、たくさんの人がいる。こんなにたくさんの人の中にあって――俺は1人だ。
もう慣れたはずの人混みに酔いそうになって、壁際に寄って立ち止まり、目を強くつぶった。その瞬間に誰かに肩を叩かれた。
「お茶ぐらいしませんか。」倉田だった。
「お断りします。」足を止めたことを後悔しながら、歩き出す。
「変なことしないよ。」倉田は和樹の隣に立ち、歩調を合わせて歩いた。
「当たり前です。」
「残された者同士、淋しさを舐めあおうよ。」
和樹は再び足を止めた。倉田は2、3歩進めてしまった足を戻して、和樹の前に立った。
「わざわざ待ってたんですか?」
「あわよくば、とは思ってたかな。あと5分待って会えなければ諦めようとも思ってたけど。」
「朝メシ、おごってくれます?」
「もちろん。」
和樹は倉田と一緒に、東京駅構内のカフェに入った。サンドイッチとアイスコーヒーを注文する。倉田は同じものをもう1セット、と言った。
「着いて来てくれると思わなかった。」倉田が言った。店員が冷水と紙おしぼりを2人の前に置いた。
「それなのにナンパするんだ?」
「ダメ元でね。でも、どうして?」
「朝、小さいタルト1個食べただけで、腹減ってきたところだったし、メシ代を1回浮かせたかったから。」和樹は水を飲む。
「はは。彼氏に随分つぎこんだの?」
「いや、金に関しては、涼矢のほうがはるかに出してる。あいつ、金持ちなんで。」おしぼりで手を拭いた。サンドイッチはまだ来ていないが、なんだかべたつく気がしていた。「あとは、淋しかったから。」
「へえ。」倉田は意味深な目つきで和樹を見つめる。
「俺、1人に慣れてなくて。やっと慣れたと思ったら、あいつが来て。ホント、ずっとベッタリ一緒にいたから、今ちょっとしんどい、かな。」
「随分素直に言うんだね。1人で淋しいなんて言われたら、俺、喜んじゃうよ?」
「涼矢も哲も……倉田さんは知らないけど、あの2人は、大学で、オープンにしてるでしょ? その、自分がゲイだってこと。俺はしてなくて。」
「うん。」
「だからこういうこと言えるの、もしかしたら倉田さんだけかもしれない。」
その時、オーダーした品々が運ばれてきた。和樹は真っ先にアイスコーヒーを飲む。何故だかやけに咽喉が渇くのだ。
「それで誘ってないなら、悪質だな、きみは。」倉田が笑った。メガネの奥の目尻が下がり、くしゃりとした笑顔だ。
「悪質です。」和樹はサンドイッチにかぶりついた。
「なぁんだ。やっぱり、その気はないんだ。」倉田も食べ始めた。
「ないですよ。」
倉田はまた笑う。「そう言えば、哲、ね。」
「はい。」
「少し前に、実家に行ったんだ。」
「あ……、そうですか。」二度と戻らないと言っていたはずの実家へ。哲が。倉田に似た義父とも会ったのだろうか。そのことは倉田には言っていないという哲の告白だったが、倉田は今でも知らないままなのだろうか。
「俺は都倉くんがどこまで知ってるのか知らないし、何をもって良い悪いを決めていいのか分からないから、なんとも言えないけど、俺から見る分には、行って良かったと思ってる。」倉田もまた、和樹にどこまで話していいのかは手探りの様子だ。
「はあ。」
「哲は大学に戻るよ。真面目に勉強するし、バイトも急いで探すから、叔父さんの家での下宿が続けられるよう口添えしてほしいと、親御さんに頭を下げに行った。」
「1人で?」
「1人で。」
「あの……倉田さんと哲は、これからどう……?」
「哲とは、別れた。」
「えっ。」
「ここからは俺の話ね。奥さんに話した。離婚したいって。約束が違うと言われた。まあ、そうだよね。彼女の言い分は何でも聞くと言ったら、条件を出された。それを飲んでくれるなら慰謝料も何も無しで離婚に応じるって。」
「はあ。」
「条件てのは、精子の提供。彼女はそれで妊娠出産したいそうだ。いわゆる人工授精だね。出産までこぎつけたところで離婚する、と。」
和樹は黙り込むしかなかった。
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