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第224話 ことのは(1)

「そんなのねえ、いつ成功するか分からないし、最短でうまく行ったって、出産はそのまた9ヶ月先だ。どっちにしろあいつの卒業を目処にしていたから、離婚成立までに1年2年かかることは構わないんだ。でもさ、奥さんと本当のセックスをするわけじゃないけど、一応は子作り中ってことだろ? こっちはその状況で、あいつに他の男とつきあうなとはさすがに言えなくて。しかも、場合によっちゃ高度治療も視野に入れないといけなくて、そういうのって費用も馬鹿にならなくて、その気になったらいつでも来いとは言えなくなっちゃった。情けない話だよ。」倉田はそう言って苦笑した。それから「きみらは若いもんなぁ。」と言った。 「倉田さんだって、そんな年でもないでしょ。ていうか、年齢とこの話と、何の関係があるんですか。」 「俺にはなくても彼女には大いに関係あるんだよ。女性にはタイムリミットがあるんだから。」倉田はサンドイッチを食べながら、次に話すことを考えるように目玉を上に動かした。黒目が元の位置に戻ると同時に、話し出す。「きみらは、20歳前で、学生で、これからいくらでも出会いがあるし。やり直しもできる。特に都倉くんはアレでしょ、根っからのゲイでもない。だったらさ、これから普通に女の子と恋愛して、普通に結婚だってなんだってできるわけじゃない? わざわざ茨の道を歩まずとも。そういうの、考えない?」 「俺は涼矢が良いです。」 「ハッ。」倉田は乾いた笑いをした。「参っちゃうよね。そんな風に言われると。」倉田は頭を抱えるようにうつむいた。それからまた顔を上げる。「哲はそう言ってくれないの。俺が良いなんて、絶対言ってくれない。」  倉田はそう言うが、哲は和樹たちに対しては言っていたはずだ。『誰か一人に絞れって言われるなら、ヨウちゃんがいい』と。「倉田さんは言ったんですか? 哲が良いんだって、ちゃんと。」 「言ったよ。おじさんがさ、恥も外聞も捨てて、10個も年下の子に。好きだのなんだの、人生で初めてだよ、そんな恥ずかしいこと言ったの。」  好きだのなんだのが恥ずかしい、という言葉に、和樹のほうが赤面してしまう。涼矢とはしょっちゅう言い合っている。さっきの別れ際のホームでも。 「あ、言うんだ?」倉田は和樹のぎこちなさを目ざとく見つけて、ニヤリとした。 「それなのに別れるって、どうしてですか? 哲がそう言ったんですか?」和樹は話題を変えた。 「うーん。どっちが言った、というわけでもないけど。はっきり言ったのは俺だな。やっぱりね、怖いんだよ、おじさんとしては。若い子の人生を狂わせるなんてさ。でも、一度こういうこと考え出したら、奥さんと形だけでも夫婦でいることにも耐えられそうにないし、全部白紙にしたくなっちゃったわけよ。」 「でも哲、今日元気なかった。あいつは、別れたくないんじゃないですか?」  倉田はアイスコーヒーにミルクとガムシロップを入れ、ストローでかき混ぜた。「約束してやれることなんかひとつもないからなあ。」薄笑いを浮かべて、そんなセリフを吐く。 「そんなの、俺たちだって。」どんなに好きだと言い合ったところで、2人の関係には何の保証もない。これから何者になるかも分からない。約束なんかできるわけがない。だからこそ、せめてもの慰めに、お揃いのピアスをつけたりもした。 「だからさ、それはきみたちが若いから。」 「若い若いって、そこまでこどもじゃないですよ。そりゃ社会人から見たら、甘えてるように見えるかもしれないけど。」 「いや、そうじゃなくて。」倉田は眉をハの字に下げて、困惑の表情を見せた。「きみたちは、2人ともが、同じように若いから。同じ方向が目指せるだろう? 就職頑張ろう、試験頑張ろう、ってさ。立場が同じって言うのかな。でも、俺と哲はね、放っておくと、どうしても俺が保護者で、あいつは庇護される側になっちゃう。特にあいつは、寝るだけなら見境なく誰とでも寝るけど、それなりにつきあうというと親子ほど年上の奴ばかりで……俺はこれでも相当若いほうなんだよ、奴の彼氏リストの中ではね。」  親子ほども年の離れた人とばかり。  そう話す倉田の顔が、ファミレスで見せられた哲の義父の顔と重なる。 「父親みたいにしてやったらいいじゃないですか、好きなんだったら。哲がそうしてほしいの分かってるんだったら。」和樹は言った。 「だって俺、あいつの親父じゃねえもん。」こどものように口をとがらせて、倉田が言った。「哲にしても奥さんにしても、なんで俺をそう、父親にしたいのかね。俺に父性なんか皆無だっての。」 「お、奥さんは、その、こどもが生まれたとして、離婚して、そしたら、どうするんですか?」 「例の彼女と暮らして、2人で一緒に子育てするんだよ。養育費も要らないってさ。本当に、俺は単なる精子提供者なの。生まれた子には指一本触れさせないって。別に触りたくもないけど。」  今度は、夏鈴母子を思い出した。和樹の指を握った、小さな小さな手。それに触りたくもないと言い放つ倉田を、和樹はどうしても理解できなかった。したくないと思った。自分のこどもなんてゾッとする。そんな倉田のセリフに共感してしまうところもあるのだ、と涼矢は言っていた。しかし、和樹の目からすると、涼矢は倉田と全然違う人種に見える。この場に涼矢がいたら、倉田に何と言うのだろう。

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