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第226話 ことのは(3)
「幻滅した?」
「してません。最初から期待してないんで。」
「きみがそんな風に言うなんて、あの偏屈な彼氏と一緒にいすぎたんじゃない?」
涼矢と一緒にいて、いすぎるなんてこと、ない。そんな気持ちが頭をよぎる。俺、すげえ、涼矢のこと好きだ、と、こんな場面で思う。
「別れて良かったのかもしれないですね。少なくとも哲にとっては。今は傷ついてるかもしれないけど。」
「うん。」倉田は微笑んでいた。安堵しているようにも見えた。
「俺、あなたとはもう会わないと思いますけど、今日は、ありがとうございました。朝メシと、あと、涼矢の切符。」和樹は倉田にぶっきらぼうにお礼を言った。
「俺もね、きみに話せて良かったよ。」もう会わないと言ったら、「まあまあ、そんなこと言わないで」とでも返してくると思っていたのに、倉田はあっさりと和樹の言葉を引き取った。
「そうですか? 態度悪かったでしょ、俺。」和樹のほうがついそんなフォローをしてしまう。
「誰かに怒られたかったんだよ。」そう言って倉田はまた微笑んだ。
「怒ってはないです、呆れただけ。」似たようなセリフを涼矢に言われた記憶がある。何の時だったか。
「どっちでもいいけどね。ありがとう。」
カフェを出て、もう一度ごちそうになった礼を言って別れようとすると、「西荻だろ? 途中まで同じ電車だよ。俺、新宿で乗り換えだから。」と倉田が言った。
「あっ、そうか。」いったんは金輪際会わないだろうぐらいの気持ちになってしまった手前、こんな延長タイムは間抜けな気がしてしまうが、仕方がない。
2人の乗る中央線快速は東京駅が始発で、ホームは混雑していても1本見送れば確実に座ることができた。そのことは知っていたが、少しでも早く帰りたくて、和樹は既に座席の埋まっている先発の車両に乗り込んだ。倉田も続いて乗ってきて、2人並んで吊革につかまる。
「都倉くん、モテるだろ? 他の人ともつきあってみたいとは思わない? 遊びでも。」
「またそんな話。思わないよ。」和樹は倉田に丁寧な口調で話すのを放棄した。
「そんなに好きなんだ。」
「うん。でも、俺も、そういう付き合い方したことはあるよ。その子にはひどいことしたと思ってる。」
「女の子、だよね?」
「そう。」
「彼は、違うんだろ?」その「違う」が「女の子と付き合った経験」にかかっているのか、「そういう付き合い方をした経験」にかかっているのか曖昧だったが、どちらだとしても答えはNoだ。そして、どんな答えであれ、涼矢についての余計な情報を倉田に教えるつもりもない。曖昧に笑って明言は避けた。
「彼は、不安だろうね。きみが相手じゃ。」
「どういう意味?」
「ノンケのイケメンで、しかも遠距離。」
そんな会話を目の前に座る乗客はどう聞いているのだろうと気になったが、うつらうつらと舟を漕いでいた。手にしたスマホがもう少しでずり落ちそうだ。
「俺だって不安だよ。哲みたいな奴が近くにいるんだから。」
「そっか。そっちのほうが不安か。」倉田は声を出さずに笑った。
「若いからって、なんでもかんでも平気なわけじゃない。不安だし、必死だよ。あんたみたいに余裕なんかない。」ついにあんた呼ばわりになる。
「俺のどこに余裕が。」
「好きな奴が自分のこと好きだっつってんのに、逃がそうとしてる。その上、何の努力もしないくせして、帰ってくると思ってる。」
「そう言われると、俺って随分とひどい男だな。」
「相当ひどいよ。」
「そうか。」倉田は吊革に両手でつかまり、少し考える。挙句に「確かにひどい。」と繰り返した。
「何言ってんの、今更。」
「自由にさせてやりたかったんだ、俺は。あいつはずっと好き勝手やってきてたし、そういうあいつが俺は好きだった。俺1人のものにするのは悪いことだと思ってた。」
「きれいに言っちゃってるけどさ、そういうのって結局、責任取りたくない言い訳だよね。」
倉田は苦笑する。「そう言われても仕方ない、かな。……ずっと引きとめておける自信もないしさ。年も離れてて、いつか気まぐれに振られるぐらいなら、先に振っちゃえ、なんてね。」
「良い年して、馬鹿みたい。」
「……容赦ないなあ。」
「二度と会わないと思ってるから。」
「まあ、そうなるかもしれないけど、一縷の希望ぐらい残しておいてよ。あいつとよりを戻せた時には、一緒に祝ってくれ。」
「あんたが頑張って努力した結果でそうなったら、祝ってやるよ。まずはさっきの、言葉でちゃんと伝えるってところから。」
「よし。」倉田はにんまりと笑う。「俺さ、あの日から一度も煙草吸ってないんだ。きみのおかげで禁煙だって成功させたんだからね、そうと決まれば、頑張れるんだよ、俺。」
電車が新宿に近づいた。多くの人が降りる準備を始める。倉田も姿勢と表情を正して、和樹に向き合った。「元気で。彼と仲良くね。」と手を差し出され、和樹は反射的にその手を握る。握手して、離して、倉田は電車を降りて行った。
和樹は次の中野駅で各駅停車に乗り換える。涼矢が来た日、「この快速は休日になると西荻窪駅には停まらないんだ」、そんな説明をしたのが、まるで昨日のことのようだ。
涼矢と毎日のように通った駅前のスーパー。焼き鮭の朝食を食べた定食屋。例の喫茶店は少し遠回りしないと行けない。今日は行かないでおく。あの店は、この短期間で、涼矢との思い出ができすぎた。
アパートが見えた。階段下の集合ポストには、当然もう新聞はひとつもない。階段を上がる。かぼすの隣人の部屋の前を通って、自室にたどりつく。
鍵を開けて、中に入る。後ろ手にドアを閉めた。
「ただいま。」
返事などあるはずもない。それを分かっていても、分かっているから、ごく小さく呟いた。
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