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第990話 nick of time (9)
「困らせればいいんだよ」
どこからか声がした。男の声とも女の声ともつかないしゃがれ声だ。
「へっ」
カノンが驚いて背後を見る。イタタタと言いながらエミリがのろのろと起き上がった。乱れた髪の毛を手で直そうとして、却ってひどい有様になる。それからよだれの跡のついた口元を手の甲で拭った。
「おしぼり、ない? きれいなやつ」しゃがれ声のままエミリが言い、カノンは卓上を目で探す。しかし、未使用のおしぼりはなさそうだ。するとカノンは自分のバッグからウェットティッシュを出して、エミリに渡した。エミリは遠慮せず二枚三枚と抜き出して口の周りを拭いたかと思えば、今度は「あー」と自分の声を確かめるように声を出す。
「はい、お水」
カノンが冷水を渡すとエミリはそれを素直に受け取り、ごくごくと飲み干した。それからズルズルと移動してカノンと和樹の間に割り込むように座った。
「いやー、マジでひっどいな、あたし」
水を飲んだお陰か、少しだけ元の声に戻ったエミリがスマホを鏡代わりにして自分の顔を見る。
「うん、ひっどいよ。気持ち悪かったりする?」
「それは大丈夫。でも体が痛い」
「そんなとこで寝るから」
カノンが笑う。座敷は畳敷きだが、窓のある壁際からの数十センチは板張りになっている。エミリが横たわっていたのは、ちょうどその板張り部分の床だ。
「これ、カノンのコートでしょ。ありがと、ごめん」エミリは掛けられていたコートを畳みながらカノンに渡した。「ああ、あと、ティッシュとお水もありがと。んで、ごめん」
「ブラシ持ってる? 頭、ぐちゃぐちゃだよ?」
「持ってる。でもいいよ、結んじゃう」
エミリは手首につけていたヘアーゴムを取り、慣れた手つきで軽くウェーブのかかったロングヘアをひとつに結わえた。
「で、さっきなんて言ったの?」
カノンの質問に、エミリは首を傾げた。
「なんか言ったっけ」
「困らせればいいとかなんとかって聞こえたけど」
「ああ、あれか。聞こえてるじゃない、困らせればいいって言ったんだよ。その、教授って人」
「やだよ、卒論の担当教授になるかもしれない先生とゴタゴタするなんて」
「いっこ確認するけど、もしつきあえたとしても、不倫じゃないよね?」
「違う違う。……あ、でも分かんないか。独身なのは確かだけど、パートナーがいて同棲してるかもしれないもんね。そういうのも不倫になるのかな?」
「なるでしょ」エミリは向かいに座る涼矢を見る。「涼矢と和樹が同棲してたとして、和樹が教え子とつきあったら不倫でしょ」
「それは浮気って言うんじゃない?」
「浮気は、不倫でしょ」
カノンとエミリのやりとりを隣で聞いていた和樹が割って入った。
「あの、その例はやめてほしいんだけど」
「そうだ、涼矢はこういうの詳しいんじゃない?」エミリがあっけらかんと言う。「不倫と浮気の違い」
「なんで俺が」
しかめ面をする涼矢に、エミリが被せるように言った。
「法律上では何か違うのかって意味だよ」
「ああ、そっちか」そう言いながらも、無愛想な声のままだ。「まあ、一般的には、不倫てのは既婚者が配偶者以外と性的関係を持つことで、浮気は既婚でもそうじゃなくてもパートナー以外の人に気を引かれること全般ってところじゃない? 慰謝料請求できるのは不倫の関係、つまり既婚者の場合だよね。婚約してるとか内縁関係だったら認められることもあると思うけど、同性のパートナーだと難しいと思う。一緒に暮らしていたとしても」
「それじゃあ和樹がよその女の子とイチャイチャしても、浮気ではあるけど不倫じゃなくて、涼矢は慰謝料もらえないってこと?」
「たぶんね」
「かわいそう、涼矢」
「だから、その設定やめろって」和樹が苦笑いしながら会話に入る。「俺は浮気も不倫もし・ま・せ・ん」
和樹の大仰な言い方にカノンがフフッと吹き出し、それと同時に三人の視線がカノンに集中した。
「なんだよ、信用できないってのかよ」
和樹はわざとらしく口を尖らせた。
「違う、逆」カノンは涼矢をチラリと見てから、また和樹を見た。「前の和樹だったら、そんなセリフ信用できるかーいってツッコミ入れるとこだったけど、今はね、本当にそうなんだろうなって。あんたたち二人共、浮気とかそういう心配なさそうだなって。そう思ったら、なんかおかしくなっちゃった」それから今度は、エミリの顔を見る。「でも、やっぱり先生はやめとくよ。振られるのは分かってて告白して、そのせいでどう断ろうかなんて悩ませたくないし、下手に気を遣われるのも嫌だし。もし先生に彼氏がいたら、その人のことだって傷つけちゃうかもしれないし」
「なー、なんかそれ、勝手に俺らを重ねてない?」和樹が言う。「そのセンセがゲイだってのも、なんとなくそんな気がするってだけなんだろ? その上、想像上の彼氏を傷つけることまで考えるのはちょっと先回りしすぎなんじゃねえの?」
カノンは黙り込む。エミリが何か言おうと口を開きかけて、やめた。
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