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第991話 nick of time (10)
「俺としては、どっちかっつーと、教授と学生ってほうが気になるな。やっぱさ、圧倒的に相手の立場が上だろ? 卒業もその先生次第かもしれないんだろ? そういう相手とつきあって、もし変な奴だったらどうするよ?」
「それは言えてる」エミリは、今度は和樹に加勢した。「世の中、ほんっとうに変な奴がいるんだよ。知ってるでしょ、あたしのストーカー」
「そんな人じゃないよ」
「ストーカーだってつきあう前は変じゃなかったし、つきあいだしてからだって、はじめは優しい人だったよ」
「……」
「ま、別に告るなとは言わないけど」和樹が場を仕切り直すように言った。「タイミングは考えたほうがいいんじゃないかな、と思う。卒業決定してから、とかさ」
「……二年我慢しろって?」カノンは和樹を上目遣いで見る。「二年経ったらどうにかなる?」
「それは分かんねえよ。でも、とにかく生徒に手を出す教師はダメだと思ってっからさ、俺」
「私が手を出すほうだよ?」
「おんなじだって。生徒から言い寄られて据え膳食うような奴だったら教師失格だっつの」
「うわ、和樹ったら意外とモラリスト」
茶々を入れたのはエミリだ。
「意外って言うな」
「いい先生になりそうって褒めたんだよ」
「教師になるかどうかは未定だけど」
「まだ決めてないの?」
「ん」
「キツイでしょ、教職課程。そろそろ教師か企業か絞っていかないと就活大変じゃない?」
「まあね」
「じゃあ都倉先生のおっしゃる通り、卒業まで待ちますよ」エミリと和樹の会話を聞いていたカノンが、どこか吹っ切れた面持ちで言った。「でも、二年もあるとねえ、私もよそに目が行っちゃうかも」
「出ました、恋多き女カノン」
エミリのツッコミにカノンは笑う。
「そうだね、魔性のカノンさまなんで、これから二つ三つ別の恋愛遍歴重ねて、それでも先生のこと忘れてなかったらダメ元で告るわ」
「魔性って、自分で言うか」エミリが笑う。「まっ、いいんじゃない、それで」
「そうね」カノンは涼矢、和樹、エミリ、と順に顔を見回した。「悩んでたのが嘘みたい。ありがとね」
「おう」
和樹はニコニコと笑って応じたが、涼矢は最後まで仏頂面のままだった。かと言って何か言いたそうでもない。あえて言えば「昔の涼矢」のようだった。無口で、無愛想で、何を考えているか分からなかった涼矢。その能面のような表情の奥に和樹への滾る思いを隠していた涼矢。今はどんな気持ちを隠しているのか。
そのときだ。涼矢の背後から声がした。
「なあ、涼矢」
声の主は柳瀬だった。ちょうど涼矢の背中合わせの席にいたらしい。にじり寄るようにして、涼矢のすぐそばまで近づいたかと思うと、小声で話しかけてきた。和樹はそれとなく耳をそばだてる。
「下に中学んときの先輩来てるぞ。ほら、美術部だか文芸部だかの」
「……忘れた」
「おまえ、一時期ちょっと仲良くしてたと思うけど」
「仲良くしてた先輩なんて水泳部にだっていねえよ」
「だから覚えてる。おまえが誰かに懐くのが珍しくて」
「俺は覚えてない。覚えてたとしても、別に話すこともないし」
「ま、それもそうか」
柳瀬は言うだけ言うと元の座布団に戻り、背を向けた。
香椎についての嘘は和樹への気遣いだろうが、「話すことはない」という言葉は事実だろう。話すべきことは話してしまったあとなのだから。和樹はさっきの二人の様子を思い出す。数年ぶりの再会を果たした彼らの間に流れていた空気は、懐かしさだけでも、後悔だけでもないように思えた。二人にとっての「あの日々」は、ただの甘酸っぱい思い出として受け流すにはまだ少し生々しい記憶のようだった。――でも、そういった過去があって今の涼矢がある。そういう涼矢だから好きなのだ。涼矢本人にもそう伝えたことがある。だが、かといって今の二人に旧交を温めてほしいなどとは思わない。もう二度と会ってくれるなと思う。今は和樹のほうの「サークルの先輩」となった香椎だが、本音を言えばそれだって嫌だ。香椎が限りなく幽霊部員で、会う機会はほとんどないのが救いだ。
そう、これは単なる嫉妬だ。香椎と初めて会ったときは、涼矢がかつて好きになった相手がこういう人でよかったと思ったものなのに、実際こんな場面に遭遇してしまうと嫉妬する。そういう自分が少し情けない、と和樹は思う。
「で、エミリは最近どうなの」
香椎のことを頭から追いやるように、和樹はエミリに話を振った。
「どうって、コンディションは悪くないけど、彼氏とは別れちゃったよ」
「え、そうなの」
「うん」
一緒にディズニーランドに行ったときには、運命の人だとさえ言っていた気がするが。
「まあ、いろいろありましてね」
「てことは、私たち二人共フリーだ」カノンがそう言ってエミリの肩を抱く。「世の中の男たちは見る目がないねえ」
「ほんとそれ」
「エミリ、四〇歳になってもお互い一人だったら、一緒に暮らそうね」
カノンがそう言うと、エミリはアハハと大口を開けて笑った。
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