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第234話 I'm proud of you (7)
あの時の佐江子に動揺など微塵も感じなかった。驚いている様子もなかった。セックスの時にはきちんとコンドームを使えと言いのけたほどだ。でも、内心は違っていたのか。それを顔に出さないでいられたのは弁護士という職業の賜物か。
佐江子は続けた。「驚いたのは、相手が男の子だったからじゃないよ。それもちょっとはびっくりしたけど、それより、あなたが恋愛をしているということに驚いたのよ。」
俺をなんだと思っているんだ、と涼矢は思った。恋だったら、年相応にしてきたと思う。誰にも言えなかっただけだ。態度に表せなかっただけだ。佐江子が本心を外に表さずにいるのは意図的なもので、職業上の武器であり、ある種の攻撃かもしれないが、涼矢のそれは完全に無意識の「防御」だった。その術を身につけたきっかけは、最初の恋だった。佐江子も知っている、あの家庭教師への恋慕。――俺はまだこどもで、幼い恋だったけど、確かに好きだったんだ。でも、佐江子が今、「驚いた」と言っているのは、まさに「あの人のこと」があったからだろうと思う。
「母さんは、俺の、そういう……恋愛感情の対象というか……そういうの、知りたい?」
「そうね。あなたがそれを話すことが辛いというのでなければ、知りたい。」
正直、辛い。しかし、話すことで自分が何者なのかが整理されて、すっきりできる気もする。母親には「本当のこと」を知っておいてもらいたいとも思う。涼矢は、佐江子がたった今言った言葉の鏡のような感情を抱いた。「母親がそれを聞いて辛いというのでなければ、話したい」と。さっき佐江子は、「涼矢は分かってもらいたいことを伝える努力が足りない」と言った。そう言った佐江子なら、聞く辛さよりも、話してもらえた喜びが上回るだろうか。
「そんな深刻にならなくていいと思うよ。」無意識に眉間に皺を寄せて、親指の爪を噛んでいた涼矢に、佐江子が言った。「言わば、棚卸よ。あなたという人間の、すべてではないけれど、大事な部分の、棚卸作業。どんな品揃えで、何が在庫過剰で、何が不足なのか分かれば、やるべきことが見えてくる。それだけのこと。それによってあなたの価値が決まるわけじゃないから。」
「時系列で?」
「お好きなように。」
「……まず、俺はゲイだと思う。初めから、男の人が好きだったから。それを最初に認識したのは、渉 先生。」
佐江子は目を見開いた。今の佐江子は「本心を表に出さない」スキルを発動せず、素の状態で息子と対峙しようとしていた。そして、目と同時に口も開いたが、言葉は出てこなかった。
渉は佐江子の知り合いの学生だった。家政婦もいなくなる夜、家で1人で過ごす小学生の息子のシッターの役割を兼ねて、家庭教師をお願いした。そして、彼がゲイであることに苦しみ、さらにそれを好きな相手から揶揄されて自死という結末を迎えた後、ふつふつとこみ上げてきたのは、彼をそこまで追い込んだものへの怒りだった。だが、同時に、親のいない家の中で、息子がゲイである彼の性的な対象であった可能性を想像してしまった。信頼していた渉を冒涜していると思いつつ、どうしても否定しきれなかった。それこそが自分の怒りの対象の本質だと分かっていながらも、佐江子は息子に問うてしまったのだ。彼に何かされなかったか、と。それ以降、佐江子は渉へのふたつの罪悪感が消えないまま現在に至っていた。ひとつは、彼がそこまで追い詰められていたのに気付かず、救えなかったこと。そして、ふたつめが、死んでなお、彼の罪を疑ってしまったこと。
「先生からは何もされてないよ。」佐江子の心を見透かすように、涼矢が言った。
こどもの頃の涼矢に聞いた時も同じ答えだった。
「俺が一方的に憧れて、好きになっただけ。」今の涼矢は、そう付け加えた。「好きだと言うこともできないうちに、いなくなった。だから、母さんが心配するようなことは、本当に何一つなかった。あれば、先生は死なずに済んだかもしれないけど。」
佐江子が首を横に振った。「それは違うよ。そんなことがなくて良かったの。あなた、あの時、まだほんのこどもで。」
「うん。分かってる。」涼矢はうつむいた。
そうだ。あの時、俺はこどもだった。先生の恋愛対象が同性だとしても、そんな対象にはなりえないほどに、こどもだった。先生と同じ年を重ねていたら、仮に彼の一番好きな人にはなれなくても、死なせない程度には助けられたかもしれない。それが、一時的な快楽によって目先の苦痛から目を背けるための相手だったとしても。
そう思った時、哲と倉田の顔が浮かんだ。倉田は哲の「一番好きな人」ではなかった。でも、哲は倉田を特別な人ではあるのだと言っていた。腕の内側の傷は新しいものではないように見えた。新しい傷が増えなくなったのは、倉田が哲の自傷の代役を務めるようになったからかもしれない。
「私が、もっと普通の母親だったら、あなたにそんな顔をさせずに済んだんだろうね。もっと家にいて、こどものことも、もっと……。」佐江子が言った。
涼矢は顔を上げて、佐江子を見た。「俺は母さんが、母さんみたいな母親だったから、今、生きてる。」
「……そうなの? 本当に?」
涼矢はうなずいた。「あなたがどんな母親だったとしても、俺はゲイだったと思う。でも、あなたが母親じゃなかったら、いつか、先生と同じ道をたどったと思う。」
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