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第235話 I'm proud of you (8)
「……そう。」佐江子は感極まってはいたが、泣かなかった。喫茶店のマスター夫妻の話には潤ませていた目も、今はいつも通りに強い意志が宿ったままだ。佐江子は渉の死の後、猛烈に働いた。怒りをエネルギーに変えて。それが渉への贖罪だった。そして、高校進学を控えたある日、涼矢は司法の道を目指したいと口にした。それを聞いて、やっと佐江子は激務のスピードを落としたのだ。自分のやり方は間違っていない。自分は息子に幻滅されていない。渉の死を無駄にせずに済んだ。そう思えるようになったから。今も忙しい毎日ではあるが、あの頃よりはずっとマイペースに過ごしている。
「それで……もちろん先生のことはショックだったし、今でも忘れられないけど、その次に……中学の時にも、好きな人ができて。それも男だった。でも、この人のことは、あまり覚えてない。ただ、自分はゲイなんだとはっきり自覚した。」
「うん。」
「でも、渉先生のこともあって、人には言っちゃいけないと思ってた。その時も、相手には何も言えなかった。相手には、って言うか誰にも言えなかった。」
「そうか。」
「そういうの、結構しんどかったし。もう、誰も好きにならないと思った。でも、高校に入って……。」
「都倉くんに出会った。」
「うん。」
「今度は、諦めなかったのね。」
「諦められなかった。」
「彼もゲイだったの?」
「違うよ。女の子とつきあってた。」
「モテるだろうね。」
「めちゃくちゃモテる。」
「その中から勝ち取ったのか。やるじゃない。」
涼矢は照れくさそうに、口を歪めた。笑ってしまいそうになるのを無理に押さえているのが丸分かりだ。「ええと、それから。」照れくささを隠す意味もあって、和樹の話題を変える。
「何、まだあるの。」
「この際だから、棚卸。」
「うん。」
「えっと、女性になりたいとは思ってない。性転換したいとか女の服を着たいとか、それはないです。」
「そう。」
「あと、なんだっけ。バイでもないです。女性は友達止まりです。」
「うん。」佐江子はその言い方につい笑ってしまう。
「他に聞きたいことある?」
「今は、オープンにしてるの? 大学とかで。」
「自分からは言わないけど、聞かれれば、正直に答えてる。」
「高校の時は?」
「一部の人にだけ、卒業した後に言った。柳瀬も知ってる。」高校時代の友人の1人、柳瀬は、高校だけでなく幼稚園からの付き合いだから、親も知っている。
「ああ、総ちゃん。懐かしい。彼、元気なのかな。」柳瀬の下の名は総一郎だ。
「元気に浪人中。ポン太は高校中退してバンドやってる。」
「ポン太って、順ちゃんよね。彼らしい。」弟は順一郎。年子の兄弟だが、紛らわしい名前で双子と間違われるからといって、いつしか弟は「ポン太」と呼ばれるようになった。
「あいつが……柳瀬の、兄貴のほうが、割とあっさり受け入れてくれて。それで、その時、10人ぐらいいたのかな。そのへんの奴らは、柳瀬が真っ先にそういう態度してくれたから、すんなり聞いてくれた感じで。腹ん中は知らないけど、直接的に嫌な思いをしたことは、今のところ、ない。」
「そう。それ聞いて安心した。」
「でも、親戚には言わなくていいよ。特に深沢の本家には絶対言わないほうがいいと思う。」
「そうね、あの人たち、頭悪いからね。」佐江子が一刀両断にそんな風に言うので、涼矢は笑ってしまう。
「また、俺の嫁がどうこう言い出したら、言っちゃうかもしれないけど。」
「どっちでもいいわ、それは。私からは言わないから、あなたが言いたくなったら言えばいい。」
「うん。」そう言えば和樹と、祖母の葬式の時には一緒に乗りこんで「俺はゲイです、この人と幸せになります」と宣言してこよう、なんて話をしたな……と、ぼんやり思い出す。それを言ったら、佐江子は嬉々として「それはいい。絶対やりなさい。」とでも言いそうだ。佐江子のことだから、輪をかけて悪乗りしそうだから、言わないでおくが。
涼矢が黙ると、しばらく沈黙が続いた。涼矢は爪噛みをやめたものの、今度は人差し指の先でテーブルを規則的に、音も立てずに叩いた。言うべきことを言った達成感はあった。ただひとつ、中学の時に、海に入っていこうとしたことは言えずじまいだ。言うべきだろうか。涼矢は迷った。あれこそ佐江子に対する最も大きな秘密かもしれない。息子が同性愛者であることよりも、自殺を考えたことのほうが、母親にとっては衝撃であろうから。でも、それはもういい、とも思った。あの出来事は既に和樹に昇華してもらったのだ。だったらもう、棚卸の項目から削除してしまっていいじゃないか。今あのことを佐江子に伝えるのは、佐江子に恨みを突きつけることでしかない。そして、そんなことがしたいわけじゃない。そもそも恨んでもいない。さっき、佐江子が母親だから生きているのだと伝えた。それでいい。余計なことは言わなくていい。言いたくない。……いったんそうと決めてしまえば、気が楽になった。テーブルを叩く指も自然と止まった。
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