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第237話 Alice in Wonderland (1)
涼矢はベッドから降り、簡単なストレッチをした。ジーンズのまま寝てしまったせいで、体のあちこちに軽い違和感がある。外食に出かけるなら着替えたいところだが、行こうとしている焼き鳥屋は喫煙可能で、炭火焼の煙と相俟って煙たい店だ。そうと分かっていて新しい服に匂いをつけることもないだろうと思い直して、そのままの姿でいることにした。
リビングに行くと、佐江子は着替えも化粧も終えて、ダイニングテーブルの椅子からテレビを眺めていた。テレビのすぐ前にはローソファがあるのに、わざわざ少し離れたダイニングのほうから見ているのは、スカートを皺にしたくないからかもしれない。このあたりの神経質さは、親子共通する部分だ。ただ、リラックス時でも比較的きちんとした服を着たがる涼矢と、家の中ではステテコ姿で平気な佐江子、というところは異なる。
「もうすぐ、出る?」
「うん。○○亭でいいよね?」佐江子は駅前の焼き鳥屋の名前を出した。田崎家ではお馴染みの店で、家族間で「焼き鳥屋」と言ったらそこに決まっているから、この質問はただ口にしてみただけだった。その証拠に、涼矢が返事をしなくても、佐江子が気にする様子はない。「このドラマ、もうすぐ終わるからちょっとだけ待ってて。」再放送の恋愛ドラマだ。途中の1回だけ見ても面白いのだろうか、と涼矢は思う。
間もなくしてドラマが終わり、2人は焼き鳥屋へ向かった。
カウンターしかない店は既に常連で埋まっており、2人が滑り込むと満席になった。「生ひとつ。」椅子に座ると同時に、佐江子が言う。「ウーロン茶。」と涼矢が言う。その後は佐江子が率先して涼矢の分まで焼き鳥をオーダーする。合間に一品物を涼矢が注文する。お互いの好みやペースは大体把握しているから、いちいち確認はしない。
会話らしい会話もせずに食べ進め、お腹もなんとなく落ち着いたが、もう少し食べたい。そんなタイミングで、佐江子が「涼、なんかご飯もの要る?」と聞いた。お酒を飲み始めると、佐江子は米の飯は食べない。
「どうしようかな。」涼矢はメニューを眺めて、少し考える。と言っても、ご飯ものの選択肢はそう多くない。単なる白飯、おにぎり、お茶漬けのいずれかだ。ここのお茶漬けはお茶ではなく鶏スープをかけて食べる。
その時、ガラガラ、と引き戸が開く音がして、「あれ、いっぱいかぁ。」という男の声が聞こえた。その声に聞き覚えがある気がして、涼矢は入口に目をやる。宏樹だった。あ、と小さく声を出すと、宏樹も涼矢に気付いた様子だ。2人の目が合った。
「ども。」涼矢はぺこりと頭を下げた。
「奇遇だね。でも、入れないみたいだな、残念。」入口を開けたまま宏樹が言った。
涼矢は佐江子からの圧力を感じ、「和樹のお兄さん。」と小声で説明した。
佐江子は「あらま。」と言い、急いでカウンター下の棚のバッグを引きずり出すと「お会計お願いします。」と言った。そして、バッグから財布を出し、涼矢に押し付けた。「払っておいて。」それと同時に立ちあがって宏樹の元へ行く。「初めまして、涼矢の母でございます。」
「あ、はい。都倉宏樹と申します。和樹の兄です。高校で教員をやっております。」宏樹は、大きな体を半分店内、半分店外という半端な状態にして挨拶を返した。
「私たち、出ますから、どうぞ。」
「いえ、そんな。」
「あ、そうだ。」佐江子は宏樹をそのまま店の外まで押し出すようにして店を出た。「お1人ですか。」
「はい。」
「焼き鳥でなくてもいいなら、別のお店でご一緒しませんか。」
「え。」
「あの子、まだ食べ足りてないから、どっちにしろ2軒目行くところなんです。私も飲み足りないし、飲み相手がいたほうが楽しいから。」
「僕は構いませんけど……。」
涼矢が出てきて、2人が店の前で立ち話をしているのを見て、ギョッとする。
「涼、お兄さんと一緒に、別の店、行くわよ。」
「へっ。」
「さ、行きましょう行きましょう。」佐江子は強引に宏樹をうながし、もう少し奥まった路地の方へと向かった。いつだったか、和樹と入ったラブホテルに近づく方向だったので、涼矢は1人で気まずい思いをする。途中で違う方角に曲がって、安堵した。
「彼は、知ってるの?」佐江子は小声で涼矢に尋ねた。涼矢は無言でうなずいた。「それなら気が楽。美味しいお酒が飲めそう。」と佐江子がニヤリとした。
涼矢が嫌がる素振りをしなかったのは、単に予想外の展開についていけないだけの話だった。それは宏樹も似たり寄ったりの心境で、2人は何が何だか分からぬままに、佐江子に半ば拉致されるように、薄暗い路地裏の店に連れて行かれた。涼矢も来たことがない店だ。レストランというよりは、場末のスナックという雰囲気の店構えにひるみつつ、中に入ってみれば案外と明るく広い。
「あら、さっちゃん、お久しぶり。」と佐江子と同年輩の、この店のママらしき女性が出てきた。体格が良い。女性にしては大柄。かつ、豊満。豊満という以上に、全体的に骨太な印象だろうか。
「ごめんね、最近またちょっと忙しくて、なかなか来られなかった。今日は久々の休み。これ、うちの息子。……と、その友達。」佐江子は宏樹を「友達」として紹介した。
「ちっちゃい時、連れて来たことあるよねぇ?」
「そうだったっけ。」
「そうよ、まーくんが単身赴任行ってさ、家でごはん作る暇がないって、チビちゃん連れて、ここでご飯食べてたじゃない。あの時のチビちゃんでしょう?」
まーくん。涼矢がそれを父親の正継のことだと理解するのに、少し時間がかかった。
「ああ、そんなこともあったね。」
「こんにちは。アリスです。」年齢と、ごつめのルックスには不釣り合いな名前を名乗るママは、涼矢を見上げた。「まあ、こんなに大きくなったのね。何くんだっけ。」そういうアリスも、決して小さくはない。170cm近くありそうだ。
「涼矢です。こちらは、都倉宏樹さん。」涼矢は狼狽えていることが伝わらないようにと気を使いながら言った。
「涼矢くんに宏樹くんね。ほーんと、2人とも大きいわね。よっぽど良いもの食べてるんじゃない? うちはそこまで美味しいもの出せないかもしれないけど、ゆっくりしていってね。」
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