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第239話 Alice in Wonderland (3)
「難関はうちの親ですかね。」宏樹がビールをあおった。「すみません、これと同じの、俺にも。」宏樹は佐江子の焼酎ロックを指した。
「はいはい。すぐお持ちするわ。」アリスが去って行った。
「全然、ご存じないの?」佐江子が宏樹に尋ねた。
「ええ。うちの親は、なんといいますか、良くも悪くも小市民的で、常に多数派の中で過ごしてきたというタイプなんです。今、偉そうにこんなこと言ってる俺だって、そうです。ただ、俺は両親よりはそういうことへの理解と言うか……教員目指してたから、今のこどもたちが抱える、人間関係の悩みとか、心の問題とか、そういう勉強はしていて、その中には性的マイノリティのこともありましたし、知識だけはあったので。それでも、最初に打ち明けられた時には、オロオロしてしまったわけで……だから、弟が親に言い出せないのも無理はないと思います。かと言って俺から親に説明するのも違うと思いますしね。」
「なるほど。」
「みんな涼矢くんのことは知っています。何度かうちに遊びに来てもらってるんで。母なんか特に気に入っちゃっててなんやかんや構いたがるものですから、いつも涼矢くんには悪いなあって思ってるんですけどね。……でも、和樹の仲の良い友達だとしか。」
「うん。」佐江子はうなずいた。
涼矢は唇を内側に丸めこむようにして噛んだ。何か言いたい気持ちはあるが、言える言葉は見つからない。
「今はそれでいいと、俺は思ってます。いつか、どうにかしなきゃならない時は来るかもしれませんが、その時は本人たちに任せるつもりです。」
「そうね。そこは私も同感。うちは夫も知ってるけど、同じ意見よ。」
「すみません。うちの親、決して理解がないとか、そういうわけではないんですが、少し、時間がかかると思います。」時折、涼矢にも視線を送りながら、申し訳なさそうに宏樹が言う。
「宏樹くんが謝ることじゃないわ。もちろん、ご両親が悪いわけでもない。」佐江子はそう言い、涼矢は何も反応できずにいた。だが、そんな涼矢を咎める者はいない。
アリスが焼酎のロックを持ってきた。
「アリスも一杯、つきあいなさいよ。」佐江子が言う。
「はーい。」アリスはカウンターに行くと、佐江子たちよりは一回り小さいグラスに焼酎を注いで、戻ってきた。改めて、4人で乾杯をした。
「今日はビールじゃないの?」
「ダメなのよぅ、痛風だって!」アリスは笑った。
「それ、焼酎なら大丈夫ってもんでもないらしいよ。」
「ええっ、そうなの?」
「まあ、でも、そのぐらいの量ならいいんじゃない? あれ? アリス、前は糖尿の心配してなかった?」
「それも相変わらずよぅ。その上、五十肩でしょ、老眼でしょ、どこもかしこも、てんでダメ。2人の若さが眩しいわ。なんでもできるわよね!」
「本当よね。若いってだけで、空も飛べそう。」佐江子はロックグラスを回して、中の氷をからからと揺らした。
「なんでもしたらいいわ。恋愛も。」アリスのそんな言葉に、ふふふ、と笑ったのは佐江子だけだ。涼矢も宏樹もどうしていいか分からず、曖昧な表情を浮かべることしかできなかった。そんな2人を見て、アリスが小声で続けた。「だってね、あんたたち、勃つものも勃ちゃしないのよ。年取るって恐ろしいわよ。」
「ちょっと、息子に変なこと吹き込まないで。」大笑いしながら佐江子が言った。
「でもね、その代わりに大人になると大人にしかない楽しさがあるからね。要は、その時にできることをやっとけってことよ。生き急がないで。」
「アリスが一番生き急いでるじゃないの。仕事も家庭も誰よりつっぱしっちゃって。もう孫が3人もいるのよ、この子。」佐江子が言った。
「そうかなあ。別に急いだつもりはないんだけど。」
「やりたいことやってきただけか。」
「そうでもないわよ、一番やりたかったことはできなかったもの。」
「あら、それって何?」
アリスはグラスを手に、宏樹をチラッと見た。「ラグビー。」
「憧れでしたよ。有栖川さんは。俺、大学の後輩です。」
「あら、そうだったんだ。ごめんね、こんなになっちゃって。」
「いえ。お会いできて、光栄です。OB会とかでも、お見かけできなかったんで。」宏樹のその言葉には、からかったり小馬鹿にしているニュアンスは皆無で、心からの声に聞こえた。
「伝説にされちゃったんだもの、こんな格好で行けないわよぅ。」アリスは身体のラインに沿って手を動かして、からからと笑った。
「そうですかね。みんな心強いと思います。」宏樹は真面目な顔で言う。
「心強い?」宏樹につられるように、アリスの顔も引き締まった。
「運動選手がみんなプロになれるわけじゃないじゃないですか。現に有栖川さんだって、実業団に入るはずで……すみません、大丈夫ですか、この話?」宏樹の問いかけに、アリスは微笑んでうなずいたので、話を続けた。「でも、怪我で、できなくなったんですよね? そういうことだってあるし、そうじゃなくても、自分の限界っていうか、これで食っていくのは無理だと悟ったところで、ガキの頃から大学まで打ち込んでやってたスポーツをどこで諦めたらいいのか、分かんない奴、いっぱいいます。想像できないんですよ、デスクワークやってる自分とか、接客業やってる自分とか。俺は、高校からラグビー始めたクチで、最初からプロは目指してなかったから、すんなり高校教師になりました。でも、そうじゃない奴もいるんです。だから、有栖川さんみたいな生き方もあるっての見せてくれたら、いろんな可能性を諦めないで済む人、たくさんいると思います。」
アリスは、茫然と立っていた。さきほどまでの「くねくね」は見当たらない。茫然としながらも体幹をまっすぐに保っているのは、昔取った杵柄だろうか。
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