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第243話 Alice in Wonderland (7)

 宏樹と佐江子が体を硬くする気配を感じた。 「一緒に住みたいって話も、養子縁組の話もしてます。ずっと先の話ですけど。就職とか、司法試験とか、そういうのクリアしてからの話。」何故こんなことまで話してしまっているんだろう、と涼矢は思う。でも、自分が彼女に振られた当日でも、弟の恋の心配をする、そんな宏樹の優しい言葉は、大人の余裕を見せつけられるようで、ただ黙って聞いているのが苦しかったのだ。俺だって、俺たちだって、ちゃんと考えてる。余計な口を挟まないでほしい。いつまでもこども扱いしないでくれ。そう言いたくなってしまったのだ。それこそ、『僕だってできるもん!』とムキになって、それでいて結局大したことのできないこどもと同じだと、頭の片隅ではわかっていたけれども。 「おお、そうか。」宏樹が嬉しそうに言った。「真剣に考えてるんだな。ちゃんと、目標持って。」ムキになるこどもに腹を立てないところも、また癪に障る。  涼矢は顔を上げた。「目標じゃありません。それは手段で。」 「手段?」 「目標は、別にあります。」 「何?」  おはようとか、おかえりとか、ただいまとか、そんなことを言い合える暮らしがしたい。口にしてしまうと陳腐かもしれない。他人には、なんだそんなこと、と笑われるかもしれない。でも、養子縁組より大事だと思った。第一、これは和樹が言葉にしてくれた、俺たちの目標。2人でつかみに行く夢。今ここで、和樹不在のこの場で、ものの弾みで言いたくない。  涼矢は言った。「それは教えたくないです。2人のことだから。」 「そうか。」宏樹はあっさり納得した。それから「そういうところが、俺には足りなかったんだなあ。」と苦笑した。 「え?」 「俺は、たまに彼女に会えても、会えなかった時の言い訳ばかりしてた。いかに仕事が大変で、でも、やりがいもあって、だから、彼女をないがしろにしてるつもりじゃないんだって。でも、自分のことばかり考えてたな、と思って。2人のことなのに、自分のことばかり。」 「ま、そういうこともあるわよ。」と佐江子が言った。「それに、自分のことに集中する時期があるのも大事だわ。」 「棚卸……。」と涼矢が呟く。宏樹は正しく「たなおろし」と聞こえてはいたが、涼矢が何を言い出したのかは理解できずにきょとんとした。  解説をしたのは佐江子だ。「そう、たまにね、自分の棚卸をするの。どういう品揃えを目指していて、在庫はどうなっているのか。何が過剰でどれが欠品してるのか。宏樹くんは恋愛の在庫がなくなっちゃったかもしれないけど、果たして今すぐ補充の必要はあるのか? 自分は今、それを売り物にしたいのか? なんてね、考えるの。」 「おもしろいですね。さしずめ、有栖川さんの品揃えはデパートですね。なんでもありそう。」 「そんな良いもんじゃないわよ。あれよ、田舎に一軒だけあるよろず屋。お醤油もせっけんも懐中電灯も雪かきスコップも、生活に必要なものはなんでもあるの。でも、高級ブランド品なんかないし、どの品物もちょっとだけ怪しい。」  宏樹はアハハ、と笑った。「外見も、夜になるとちょっと怪しいネオンがついてそうですね。」 「そうそう。」 「涼矢はあれだな、会員制のバーみたいな。」宏樹が言う。 「うまいこと言うわね。あれよね、隠れ家的な。看板もなくて、入口がすごく分かりにくい、ね。」 「俺のことはいいから。」涼矢はナッツを何粒か取り、一粒ずつ口に放り込んだ。  宏樹は少し座りなおして、佐江子に向かって言った。「今日は、良かったです。1人じゃなくて。1人だったら、悪酔いしそうでした。」 「あの焼き鳥屋さんなら、悪酔いなんかしないわよ。大将、ちゃんとお客のこと見てくれるし、良いお酒しか飲ませないから。アリスの店はね、ちょっと、保証できないけど。」 「なーにが保証できないって。」アリスは、何やらカクテルのようなものを持ってきた。「涼矢くんにだけサービス。これ、ノンアルコールのカクテル。」 「きれいなブルーね。」そう言ったのは佐江子だ。 「涼矢くんのイメージ。爽やかなブルー。でも、奥底に秘められた情熱の赤。」アリスがマドラーを揺らすと、底のほうに赤い層ができた。「では、ごゆっくり。」それだけ言って、また立ち去る。  涼矢のジャスミンティーのグラスが空いてから、だいぶ時間が経過していたのに気付いたのだろうか。別に我慢していたわけでもないのだが、客商売の人の観察眼には感心する。そう思いながら、そのカクテルを飲んだ。味はさほど変わったものではない。基本的にはソーダだ。 「その赤いとこ、たぶん、グレナデンシロップよね。すごく甘いわよ。」と佐江子が言う。  少し混ぜて、赤いところも口に入れる。確かに甘い。 「青いのは何かしらね、アルコールだったら、ブルーキュラソー使うと思うけど。単なるシロップなのかな。」 「料理作んないくせに、そういうのは興味持つんだ。」と涼矢が言った。 「カクテルはほとんど飲まないんだけどね。見た目が美しくて、いいじゃない。カクテル作ってるところも、科学の実験してるみたいで楽しいわ。」  微妙に自分が和樹に言ったセリフに被っているところが、悔しい気がした。自分の考えた言葉だと思っていたことが佐江子の影響下にあるようで。  意外と咽喉が乾いていたのか、涼矢はあっという間に半分ほど飲んでしまった。その様子と、テーブルの上に点々と残ったつまみ類を見比べた後に、佐江子が「それ飲み終わったら、出ましょうか。」と言った。 「ああ、うん。」

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