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第244話 Alice in Wonderland (8)

「急がなくていいぞ。」と宏樹が言った。それから佐江子に対しては、「あの、これ、俺の分で。」と、5千円札を出した。 「いいのよ、私が無理に誘ったから。」 「いや、でも。」 「涼矢がごちそうになってることもあるんでしょ? この子、そういうの何も言ってくれないから、失礼してると思うし。」  それは事実だった。和樹が不在の都倉家に招かれて、手巻き寿司をごちそうになったのは2回、それと別に宏樹と2人で食事に行ったこともある。ファミレスのような店ではあったが、その時は宏樹が支払ってくれていた。そのことは一切佐江子には伝えていない。 「いや、それ言ったら和樹なんか、なんでもZホテルのフレンチごちそうになったとかで、本当に……。」 「それは田崎が勝手に若い子連れ回したかっただけなんだから、関係ないのよ、今日は私。ね。」 「そうですか。では、すみません。遠慮なくごちそうになります。」最後は宏樹が折れた。  テーブルで会計して、領収書が戻ってきた頃には、ちょうどよくカクテルを飲み終えていた。底に溜まる赤いシロップは残してしまったけれど。アリスによれば、秘めたる情熱だ。そんなすごいものを秘めた覚えはないけどな、と涼矢は思う。 「ちょっと失礼。」佐江子は席を立った。トイレに化粧直しにでも行くのだろう。その隙に、宏樹がしまったはずの5千円を、目立たないように涼矢に渡そうとしてきた。 「これ、涼矢がとっとけ。」 「なんで。要らないですよ。」 「和樹は金そんな持ってなかっただろ。大した仕送りしてやれてないしな。だいぶ負担させたんじゃないか? こんなんじゃ足りないかもしれないけど。」 「いいですって。」和樹だってバイトして備えてくれてたんだから。そう言ってやりたかったが、バイトのこともきっと家族には知らせていないのだろうと思うと、それ以上のことは言えなかった。 「涼矢が和樹どころか俺より金持ちなのは分かってるよ。でも、少しは兄貴面させてくれ。それに、もともとヤケ酒に消える予定だった金だしさ。」 「はあ。」結局そのお金を受け取った。  佐江子が戻ってきた。店を出る時にはアリスが店の外まで見送りに来てくれた。特に宏樹に向かって「また来てね。」と繰り返した。宏樹は律儀にそのたびに「はい、もちろん。」「絶対来ます。」と答えていた。  少し歩いて、駐車場にたどりつく。涼矢のBМWを見て、宏樹はやっぱりなあ、という顔をする。 「これ、自分の車?」助手席には佐江子が乗り、宏樹は後部座席を独占している。 「親父の。」 「そっか。ちょっと安心した。」宏樹は笑った。「免許取った祝いにポンと外車買ってもらえるのかと。」 「そこまでは。」涼矢も笑った。 「お父さんは、今どこにいらっしゃるんだっけ。」 「札幌。」 「じゃあ、やっぱり、向こうでも車は必要かな。」 「そうですね。親父は親父であっちで買ったみたい。戻ってくるときに持って帰るのかどうか知らないけど。」 「嫌よ、あんな維持費ばっかりかかる車。絶対処分して来てもらう。」佐江子が言った。 「何に乗ってらっしゃるんですか。」 「なんて言うんだっけ。私、車わかんないのよね。タイヤが4つ付いてて、乗れりゃいいと思うクチで。」  佐江子のそんな言葉を受けて、涼矢が答えた。「マセラティ。」 「わーお。」  その宏樹の言い方に2人は笑った。 「検事さんでしたっけ。儲かるんですね。」宏樹が言うと、そんな言葉も嫌味には聞こえない。 「まあ、平均収入よりは上でしょうけど、彼の場合は他にも収入源があるから。」 「何かの秘密組織と癒着してるとか?」 「あはは。だったら面白いんだけど、単なる不労所得よ。相続した不動産があって。」 「ハア、あるとこにはあるんですねえ。」 「そうなんだ。」涼矢が言う。 「え、涼、知らなかったの。」 「知らなかった。」 「言わなかったっけ。」 「うん。なんか悪いことやってんだと思ってた。」 「こら。」佐江子は涼矢の横顔を睨む。「宏樹くんだから良いけど、よそでそんなこと絶対言わないでよ。シャレにならないんだから、そういう一言って。」 「すみません、俺も変な冗談、言って。」 「いえいえ、そういう意味じゃないのよ。身内が言うとね、冗談が冗談で済ませてもらえなくなる時もあるから。信用を失うなんて、本当にそんな些細なことからなのよ。」 「大変ですね。」 「大変じゃない仕事なんてないよ。学校の先生だって大変で大切な仕事でしょ。」 「……そうですね。でも、今日、有栖川さんに会えて、ああいう話を聞けたから、すごく楽になりました。どうやっても生きていけると思えば、逆に、今やってることは好きでやってるんだって気持ちになれます。初心に帰れました。初心も何も、駆け出しのペーペーですけどね。」 「また行ってあげてね。妙な店だけど。ラグビーのお仲間連れてったら面白いわよ、きっと。」 「嫌じゃないかな。」 「嫌じゃないわよ。別に彼、ああいう生き方を恥ずかしがってるわけじゃないもの。それどころか自分が一番楽しんでる。」  都倉家のあるマンションは、車だとものの数分で到着した。  涼矢も佐江子も車に乗ったまま、宏樹を見送った。エントランスに吸い込まれていくところまで見届けて、Uターンする。

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